レーガン元大統領 家族の価値

TomoMachi2004-06-12

金曜日はレーガン元大統領国葬の日ということで公共機関は全部お休み。
テレビでは朝から晩まで葬儀の中継をしていた。
レーガンはFamily Value(家族の価値)を掲げ、古き良きアメリカの家族を蘇らせようとした。
エイズはホモへの天罰だ」と公言し、妊娠中絶に反対した。
しかし、現実には彼は決していい父親ではなく、家族はメチャクチャだった。


レーガンは女優のジェーン・ワイマンと結婚し、長女モーリンをもうけ、
長男マイケルを養子にもらった。
しかしマイケルが三歳の時、レーガンは彼らを捨てて、女優ナンシー・デイヴィスと再婚した。
ナンシーを妊娠させてしまったからだ(結婚時妊娠三ヶ月)。


二人のなれそめはアカ狩りがきっかけだと言われる。
レーガンはハリウッド俳優組合の会長をしていたが、当時はアカ狩りの真っ最中で、
ナンシーは自分が狙われていると感じて、レーガンに相談した。
レーガンはアカ狩りを仕切る非米活動委員会に、共産党に関係していた俳優の情報を提供することでナンシーを追及から救ったと言われている(後にレーガンがアカ狩りに協力した資料が発見された)。


マイケルの高校の卒業式に州知事になったレーガンが招かれた。
レーガンは壇上で息子に卒業証書を渡しながら尋ねた。
「君はなんていう名前かな?」
離婚した後、レーガンは一度もマイケルに会わなかったのだ。


ナンシーとの間の娘パティは保守的な両親に反発して、ロックやニューエイジ・カルチャーに引かれていった。
パティはイーグルスのギタリストと恋に落ち、彼を家に連れて行くと、ナンシーは冷たくこう言った。
「こんな男、うちには似合わないわ」
レーガンは子供にまるで関心がなく、子供たちを抱きしめることもほとんどなかった。
パティは家を出た。
レーガンとのつながりを拒否して母の旧姓デイヴィスを名乗り、仕送りも拒否して安アパートに住んだ。
しかし大統領の令嬢が誘拐されたら大変なので、貧乏暮らしのパティの周りにはいつも数人のシークレットサービスが警護していた(彼らはパティよりも年収が多かった)。
パティの両親への反発はしだいに強くなり、レーガン中南米政策や対ソ強攻策に反対する集会に何度も参加し、
マイクを握って父親を批判した。
ヤクザな男たちに次々と身をまかせ、別れ話で警察沙汰にもなった。
いつも無職で無一文同然で、金のために自伝小説を三冊も書いた。
中身は冷たい両親に苦しんだ少女時代、セックスとドラッグに溺れた青春時代の告白だった。
94年には金のため、『プレイボーイ』でヌードを披露した(これはビデオもある)。

末っ子のロン・レーガンJRは最初バレリーナを目指していたが、テレビのお昼のドラマなどに出演する俳優になった。しかし、その後は芽が出ず、サイコロジストの妻に養われる状態だった。
最近は姉と同じく両親に反対するリベラルな論客となり、ラジオなどで父の政策の間違いを謝罪したり、
レーガン政策の猿真似をするブッシュ大統領を批判している。


逆に養子のマイケルはローカル・ラジオ局で保守ゴリゴリの政治トーク・ショーの司会をしている。
その息子キャメロンは高校を中退してクスリに溺れたため、マイケルに家を追い出され、路上で生活していた。
22歳で中年の子持ちのオバサンに拾われたが、暴力を振るったために追い出され、オバサンの大事な宝石類を持ち逃げして警察に捕まった。


レーガンの最初の妻との間の長女モーリンは、やはり両親と正反対に中絶やシングルマザーやレズビアンの権利を守る団体の運動会になった。
自らもシングルマザーとしてウガンダから娘を養子にしていたが、2001年にメラノーマで死亡した。


しかし、パティがヌードになった直後、レーガンが重度のアルツハイマーになっていることが明らかになった。バラバラになっていた子供たちは、憎んでいた父の元に集まった。
ナンシーはパティのヌードを見て「綺麗だね。さすが私の娘だ」と誉めた。
二人はそれから父が死ぬまでその世話を続けた。
幼い頃はいちどもレーガンに抱きしめられたことがなかったマイケルを、
レーガンはいつまでもいつまでも抱きしめた。
ただ、抱きしめている相手が誰なのか、もうレーガンにはわかっていなかった。
パティが帰ってきたことも、よくわかっていなかった。
ロン・JRは「父の死を利用して、その威光を自分への支持に結び付けようとしているブッシュ大統領は恥を知れ。お前は信用できない」と言っている。