エイズを無視したレーガン政権との戦いの記録


「もう死ぬんだと思った」
 1985年、ウォール街で債権のトレイダーをしていたピーター・ステイリー(当時24歳)は、HIVポジティブと診断された。ゲイであることは秘密にしていたので、誰にも相談できなかった。AIDS(後天性免疫不全症候群)は1981年にアメリカ国内に患者が発生し、死者は年々増え続けた。
「当時は何の薬もなかった。死を待つだけだった」
 87年3月24日、ステイリーがいつものようにウォール街に出勤すると、結成されたばかりのACT UPという団体がピケを張り、「エイズの治療薬開発に政府の資金を」と訴え、警官隊に逮捕された。
 当時のアメリカ大統領だったロナルド・レーガンエイズ発生以来、何も対策を講じてなかった。それどころか公の場ではエイズについて決して言及せず、そんな病気は存在しないかのように振る舞っていた。1985年、レーガンの俳優時代からの友人ロック・ハドソンエイズで亡くなったが、大統領は動かなかった。
 ならば無理にでも政府を動かすしかない。ステイリーはACT UPの活動に身を投じた。
 2013年アカデミー賞の最優秀長編ドキュメンタリー候補になった『いかにして疫病を生き延びるかHow To Survive A Plague 』は、エイズと闘った運動家たちの記録だ。
 ステイリーをはじめ、登場する運動家のほとんどは自らがHIVポジティブ。何年も続く戦いの中で、彼らは次々と倒れ、死んでいく。妻子のいるバイセクシャルの運動家ボブ・ラフスキーが自らの顔の斑点を指さして「見えるか? これがカボシ肉腫だ! 早くしないと死んじゃうんだよ!」と叫ぶシーンは切実だ。
 しかし、政府も世間も「しょせんゲイだけの病気」と考え、関心を持たない。
 その根底には、まず宗教があった。共和党は70年代からキリスト教保守を支持基盤にしていった。「エイズは神に背いた者への天罰だ」キリスト教保守の重鎮ジェリー・フォルウェル牧師や、ジェシー・ヘルムズ上院議員共和党)はそう公言した。そして、エイズ対策に税金を使うことに頑なに反対した。ステイリーたちは抗議のため、ヘルムズ議員の自宅の屋根に上って、家全体を巨大なコンドームで覆った。そのコンドームには「エイズ・ウィルスよりも危険な政治家用コンドーム」と書いてあった。
 いっぽうカトリックはコンドームの使用そのものが神に背く行為だと信者たちに教えた。旧約聖書で神の命令に反して膣外射精したオナンという男が雷に打たれて死ぬという記述があるためだ。しかし、すでにエイズは同性愛者だけの病気ではなくなっている。コンドーム無しを称揚するのは無責任極まりない。ACT UPのメンバーはアメリカのカトリックの総本山セント・パトリック教会で次々と「ダイ・イン(死んだふり)」をしてミサを台無しにした。
 医薬品会社はそれぞれが対エイズの薬を開発していたが、政府が認可するプロセスが遅すぎた。対エイズ運動家たちは違法に入手した実験段階のエイズ薬で生体実験を申し出る。
 1992年、大統領選挙で、ブッシュ父とクリントンが激突した。全世界のエイズによる死者は累計330万人を超えていた。ブッシュ父は「エイズは患者たちの行動に問題がある」と相変わらずゲイを批判し続けた。エイズがかなり進行していたボブ・ラフスキーは、遊説中のクリントンに直接迫ってエイズ対策を約束させてから、亡くなった。
 95年、エイズの死者は820万人を超えたが、それがピークだった。いったん体に入ったエイズのウィルスを除去する治療薬はまだ発明されていないが、複数の薬を混ぜて使用し続けることで病気の進行を遅らせることが可能になったからだ。開発した研究者たちは、これがすぐに政府の認可を受けて普及したのはACT UPなどの運動のおかげだと明言する。
 自分はすぐに死ぬんだと思ったピーター・ステイリーもこのカクテル薬で今も生きているが、自分たちの戦いを無邪気に誇りはしない。「もし、エイズ発見からすぐに政府が動いていたら、数百万人は死なずに済んだんだ」