『ヒストリー・オブ・バイオレンス』クローネンバーグにインタビュー


町山 『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と聞いて、最初は「暴力の歴史」を研究する歴史ドキュメンタリーなのかと思いました。
デヴィッド・クローネンバーグ「フランスでそう言われたよ。英語には『彼はヒストリー・オブ・バイオレンス(暴力事件を起こした過去)がある』という使い回しがあるけど、フランスにはないんだ。それで『人類の歴史における暴力の映画ですか?』って聞かれたけど、それも間違ってないと思った。この映画では、ひとつの物語を通して、個人にとっての暴力、社会にとっての暴力、国にとっての暴力、それに人類にとっての暴力も論議されている。だから、政治的に論じることもできるし、もっと人間の内面に入って哲学的に論じることもできるんだ」
町山 その全部をこのインタビューで論議できるといいんですが(笑)。この映画は同名のグラフィック・ノベル(長編劇画)が原作ですが、原作の中盤は主人公トムが殺し屋ジョーイだった頃の悪行、彼のヒストリー・オブ・バイオレンスに費やされていますが、映画ではトムの過去が一切映像化されていませんね。原作ではジョーイがフォガティの目玉を奪う描写がありますが、映画ではセリフから推測するしかありません。
クローネンバーグ「私は原作があるってことを知らなかったんだよ。既に完成されたシナリオを読んで、これを監督したいと思っただけで。後から原作を読んでトムの過去を知ったけれども、私はそれをシナリオに書き加える必要はないと思った」
町山 この映画は今までのあなたの映画と逆ではないですか? たとえば『ビデオドローム』や『裸のランチ』や『クラッシュ』は、平凡な日常から暴力とセックスのファンタジーを夢見る男たちの話でした。かつて監督しようとした『トータル・リコール』や『アメリカン・サイコ』もそうですよね。ところが『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のトムにとって、暴力こそ現実で、平凡な日常こそ憧れてやまない夢だった。
クローネンバーグ 「まったくその通り。正反対だよ。だから、この映画でもジョーイの部分は平凡なトムが夢見たファンタジーじゃないか? と読み解く人もいたよ。私はそこまで考えてないけどね。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を監督したいと思った時、たしかに今まで私が作ってきた映画の裏返しだと気づいていた。だって、私の今までの映画の主人公はたいてい社会の周縁にいるか、アウトサイダーだ。変人だったりグロテスクだったりする。観客は最初、彼らに共感を持てない。監督としての私の仕事は、観客に少しずつ主人公の中に誘い込んで、映画の最後には主人公に感情移入し、理解させることだ。ところがこの映画では最初は、主人公とその家族は観客が親近感の持てる人々だ。ハリウッド用語で『アクセッシブル(とっつき易い、間口が広い)』というやつだ。だから観客を主人公たちに感情移入させるのは楽だったよ。そうやって観客が主人公たちと一体化したところで、私は彼らを、まったく想像もしてなかった暗黒に引きずり込むんだ。
町山 「アクセッシブル」なおかげで、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』はマスコミから「クローネンバーグにしてはメインストリーム(主流的・一般的)な映画だ」と言われましたね。
クローネンバーグ「それが『昔のクローネンバーグだったらもっと過激な映画を作ったはずだ』という意味だったらうれしくないな。私は何もメインストリームの映画を目指したわけじゃない。私は、広い客層を狙って自分のビジョンを妥協するような男ではない。でも、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の製作費は3200万ドルなんだよ。私の映画では最大だ。私がこの前に作った『スパイダー』の製作費なんてたったの800万ドルだからね。あの製作には二年かかったが、私は一銭も儲からなかった。これは結構つらいよ。今回は3200万ドルを回収する観客を集めるためには主人公がアクセッシブルである必要があるわけだ。とはいえ、私は二十年前にも『デッド・ゾーン』を作った。あれも『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と同じように観客が感情移入しやすい平凡な男が主人公でアメリカの平和な田舎町が舞台だ。どっちもカウボーイハットをかぶった保安官が出てくるし。しかも原作はスティーブン・キングのベストセラーだった。あれも結構メインストリームだったよ。でも、観客の数なんて私が企画を決める時は頭にないんだ。その企画が私にとって魅力的かどうかだ。映画を製作する2、3年の間、私が飽きたり退屈せずに、楽しく高揚し続けられるかどうかだ。それが一番大事だよ。突き詰めると、その映画がメインストリームかどうかなんて公開して観客が入ったかどうかで決まるんだ。どんな娯楽映画を作ろうと客が三人しか来なきゃメインストリームじゃなかったことになるからね」
町山 あなたの映画の主人公はいつもあなたの分身ですね。『ビデオドローム』のジェームズ・ウッズも、『ザ・フライ』のジェフ・ゴールドブラムも、『戦慄の絆』のジェレミー・アイアンズも、『裸のランチ』のピーター・ウェラーも、『クラッシュ』のジェームズ・スペイダーも、みんな監督自身のオルターエゴだとあなたは解説し、実際、容貌の似た俳優を選んでいる。今回のヴィゴ・モーテンセンが演じるトムはどうですか?
クローネンバーグ「ああ、彼もまったく私の兄弟だよ。トムは家庭を愛する静かな常識人で、私もそうだ(笑)。しかし、トムにはダークサイドがある。彼は実は過去に大量の人間を殺してきた。私も、過去に大量の人間を殺してきた。映画の中でね(笑)」
町山 平和なカナダという国に生まれ育ったのに、どうしてそんなに暴力に魅了されるんですか?
クローネンバーグ「そんなに魅了されてるかね(笑)。私は暴力にとりつかれてるわけじゃない。私個人は今までの人生で一度も殴り合いの経験がない。もし、本当に暴力に魅了されているなら、どっかの酒場に行ってケンカでも売ってるさ。僕はよくこの話をするんで聞き飽きたかもしれないけど、もう一度言わせてもらうよ、マーティン・スコセージは、僕の初期の作品を観て非常に感心して僕に会いたがった。でも、僕に会うのを怖がっていた。あんな映画を作る奴だから狂ってるに違いないってね。でも、僕に言わせてもらえば、『タクシードライバー』のほうがずっと狂った映画だよ。あんな暴力的な映画を作った男が僕を怖がるなんておかしいよ。おとなしい人間だって暴力的な作品を作るんだ」
町山 でも、暴力を一切描かない監督もいるでしょう。
クローネンバーグ「誰もが楽しく幸せに暮らすだけの映画なんて、君はそんなの金払って観たいか? 私はごめんだね。自分自身は楽しく幸せに暮らしたいけど、他人がそうしてるのを金払って観たくない。アーティストや研究家には、物事の本質を見極めたいという願望があるんだ。物事の表面を剥がしてその内側を見たいという欲望がね。家族とご飯を食べているだけでは人間の内側は見えない。非常事態に置かれて初めてその本質が見えるんだ。かのバーナード・ショーは言った。『抗争こそがドラマのエッセンスである』さて、抗争にはいろんな種類がある。心理的なもの、政治的なもの、感情的なもの。しかしもっとも基本的な抗争は肉体的抗争だ。つまり『暴力』だよ。だから暴力を通じて人間の心理的、肉体的機能や状態を考察することができる。私は暴力そのものに直接関心があるわけじゃない」
町山 本当ですか? あなたの映画はいつも人体破壊のディテールを執拗に描写するじゃないですか。この『ヒストリー・オブ・バイオレンス』でも、トムに撃たれた強盗が頭から血をゴボゴボ噴出して痙攣する姿を見せています。
クローネンバーグ「人体の破壊、まさにそこがポイントなんだ。暴力を私たちが恐れるのは、それが人体へのダメージだからだ。金を奪われたり、家を壊されたりする資産へのダメージも嫌だけど、それは暴力ではない。映画ではよく自動車がクラッシュするけど、それ自体は暴力ではない。暴力とは、自分自身、もしくはその家族の肉体を損傷されることだ。だから、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』では暴力を医学的な人体の損傷として見せたんだ。私が頭から血が噴き出すディテールを見せたのは、私個人がそういう残虐描写が好きだからではないし、世間がクローネンバーグの映画に血まみれ描写を期待しているからそれに応えたわけでもない。この映画のテーマにとって必要だから見せたんだ。トムが二人の強盗を退治する場面で観客を拍手喝采するだろう。その前に強盗が子供を殺すのを見ているからね。トムの暴力は必要とされ、有意義とされ、正当化されている。観客は『いいぞ! そんな悪党、やっちまえ!』という感じで快感を覚えるだろう。でも、私はトムの正義の暴力の結果を見せる。たいていの娯楽映画では、正義の味方が悪人を退治しても、撃たれた悪人が血を吐きながら痙攣したり、爆発した自動車の中で焼け死ぬ姿は見せない。観客が楽しめなくなるからだ。でも、私は、それを見せないのは無責任だと思う。暴力は、それがたとえ正義の行為として正当化されようとされまいと、もたらす結果は同じ。肉体の損傷だ。銃弾で撃たれた人間がどうなるのか、特に誇張もせず、医学的な事実を見せる。それはおぞましく、痛々しく、気が滅入る現実だ。それを見ても観客は拍手喝采を送るだろうか? スプラッターを求める人は喜ぶかもしれんな(笑)」
町山 残虐な悪党が残虐に殺されるのを見て喜ぶ観客はその悪党と同じになってますね。
クローネンバーグ「さらに暴力はそれを使ったものの心にも影響を及ぼす。人を殺した人間はもはや、それ以前の人間とは同じではいられない。私にとってこの映画で最も暴力的だと思うのは、強盗を殺した後のトムが息子を殴るシーンだ。トムは自分の行為にショックを受ける。いったん袋から放たれた暴力という名の猫は元に戻すのが大変だ」
町山 強盗を殺す前と後でトムと妻のセックス・シーンを見せたのも両者を比較するためですか? 一回目は愛すべき平凡な夫としてのトムと妻のセックス、二回目はトムが殺人者だと判明してからの妻とのセックスで。
クローネンバーグ「その通り。セックス・シーンは原作にも脚本にもなかったが、私は必要だと思ったので加えた。これは結婚についての物語でもあるし、セックス抜きに結婚を語るのは欺瞞だ。二回目のセックス・シーンをレイプだと見る人もいるが、実はもっと複雑だ。トムは人を殺したことで暴力的な面が覚醒している。妻は夫がトムではなかったと知っても愛情は残っている。さらに彼女は夫が見せた暴力的な正体に反発しつつも同時に性的に興奮させられている。それらを表現したのが二回目のセックス・シーンなんだ」
町山 ところで、もし強盗があなたの家に侵入してきたらどうしますか?
クローネンバーグ「理論的には、トムと同じことをするしかないだろうね。ただ、できるかどうかはわからない。いちおう、この映画のために銃や刃物を持った敵を素手で殺す技術を勉強はしたんだが、練習はしてないから、実践でできるかどうか。それに心理的な要素もある。躊躇せずに相手の体を傷つけることができるかどうかだ。こんなことを言っている人がいる。『暴力は社会との契約に違反した行為だ。だから暴力が発生した時、法やモラルや論理も解除される。その時、人は良き市民であることを停止し、生存のために獣にならねばらない。要するに、何でもアリだ。だって先に契約を破ったのは相手の方だから』正当防衛を正当化する理論だね。たしかに自分の命を守るために他のものを傷つけるのは、生物ならみんなやってることだ。アメーバですらしている。しかし、その暴力の結果を想像して躊躇するのは人間だけだ」
町山 トムとその妻はいつも首から十字架を提げているし、町の住民から「日曜日に教会で会おう」と挨拶されます。これは「汝、殺すなかれ」と書かれた聖書を信奉しながら、戦争や死刑には賛成するアメリカのキリスト教保守の矛盾したモラルへの批判でしょうか?
クローネンバーグ「モラルは本当は神様が人間に授けたわけじゃない。人間が作ったものだ。だから常にモラルは人の都合でコロコロ変わる。絶対的な価値、宗教を信じる人々にとっては不快な事実かもしれないが、毎週教会に通うような信心深い人々の多くが、同時に『家族を守るためなら暴力も辞さない』というアメリカの西部劇的考えを持っているのは事実だ。2004年の選挙でブッシュに投票した"赤い州"の人々だね」
町山 するとやはり、トムはアメリカの象徴ですか? 自らのヒストリー・オブ・バイオレンスのために、常に命を狙われ、戦い続けなければならない存在。
クローネンバーグ「とりあえず、"イエス"と答えておこう。ヴィゴと私はこのシナリオのもつ政治的意味について語り合った。この映画の原作も脚本もまったく政治と関係ない。それでもやっぱり、政治的なんだよ。この映画が提起する問いはこうだ。『アメリカの外交政策は昔の西部劇の模倣じゃないか?』ブッシュは『オサマ・ビン・ラディンはWanted:dead or alive(賞金首:生死を問わず)だ』などと言ってみたり、『Bring them on(かかって来い)』とジョン・ウェインのマネをしてみたり、どう見ても昔のウェスタンのマネだ」
町山 しかし、現実は西部劇ではありません。
クローネンバーグ「もちろん、そうだ。今回のイラク攻撃でも、テレビのニュースでは爆撃や砲撃、銃撃、それに勇ましく進撃する戦車しか見せなかった。視聴者はそれを見て『アメリカ万歳!』という気分になった。しかし、実際は爆撃されたビルの下にある焼け焦げた、手足を失った死体を隠しているのだ。それを見なくてはならない。その現実を見ずに戦争や暴力を語ってはならない」
町山 『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のラスト・シーンは、戦場から家族の元に帰ってきた兵士を意味しているのでしょうか? 彼は家庭を、国を守った英雄だが、その手は血塗られている……。
クローネンバーグ「あのラストは問いかけている。善良な町に住む善良な家族が、実際は誰かの血によって、暴力によって守られている。それはしかたがないことなのか? しかたがないから受け入れるのか?  それとも暴力を回避することはできるのか? ただ、これはアメリカに限ったことじゃない。イスラムも暴力的だ。私の『イクジステンズ』はイスラム教徒が『悪魔の詩』を書いたサルマン・ラシュディに死刑を宣言した事実をヒントにしている。どんな国も文明もヒストリー・オブ・バイオレンスを持っている」
町山 人間は誰でも邪悪さを秘めているから?
クローネンバーグ「私は邪悪Evilなんて言葉は使わないことにしている(笑)。邪悪とは悪魔という宗教的概念と結びついているからね。悪魔だの神だのを考えることは、人間の自由意志と主体性を放棄したことになる。
 ジョーイは自分の意志でトムになった。ジョーイは暴力が支配する街に生まれ育ち、生き延びるために暴力を覚えた。しかし、ある日、平凡な男トムになろうと決めたんだ。ずっと夢見ていた理想のアメリカ生活を生きようとした。たとえそれがすでに幻想にすぎなくても。トムほどでなくても、人間は誰だってある程度は自分の意志で自らのアイデンティティを作っていくのだと私は思う。人生を自分以外の何かのせいにしてはならない。人生にはいくつもの選択がある。どんな要素が介在しようと最終的に決定したのは自分のはずだ。ならば、人はまったく違う人間に変わることだって可能だろう。ジョーイにとってトムこそが本当の自分だったんだ。宗教や文化や環境によって与えられた生き方ではなく、自分の本当の生を実現した。つまり実存したんだよ。
 人類が戦争のない世界を実現するのは不可能だろう。でも、そんな世界を人類は想像する。不可能なことを夢見るのも人類だけが持つ能力だ。だから、決してあきらめてはいけないんだ」