http://www.excite.co.jp/News/entertainment/20040422150000/6333.html
「映画批評家の前田有一氏はこう言う。『この映画はキリスト教の信者か、聖書の知識がある人でなければ見ても内容がよくわかりません。そもそも聖書に関する知識がなければ“解釈”をめぐって論争になりようがありませんからね。かなり高いレベルの教養を求められる作品です』」
……つまり、「私にはわかりませんでした」という意味ですね……。
実際は、『パッション』は、「聖書」を忠実に映画したものでも、キリストの「真実」を歴史的事実により忠実に描こうとした作品でもない。
歴史的間違いを指摘されたメル・ギブソンは「聖書に勝る歴史書はない」と反論し、聖書に忠実な映画だと主張した。
しかし、『TVブロス』に既に書いたように、これがまたウソっぱちなのだ。
なぜなら『パッション』には聖書にない描写が合計二十箇所以上もあるからだ。
それはどれも、プロテスタントの教会では教えられないディテールなので、実際、アメリカのプロテスタントは劇場で戸惑った。
たとえばキリストが蛇を踏み潰したり、聖女ベロニカがキリストの顔を拭いたり、というシーンだ。
その多くはカトリック独特の教義のなかにあるディテールなのだが、
具体的に、メル・ギブソンがそれをどこから仕入れたかといえば、実は『我らが主イエス・キリストの悲惨な受難』という本である。
これはアンネ・カテリーネ・エメリッヒという18世紀ドイツの修道女がキリスト処刑を「幻視」した記録だ。
幻視というのは、まあ、妄想ですな。
エメリッヒは「聖痕」者でもある。両手のひら、脇腹など磔刑時のキリストの傷と同じ箇所から出血した。
この絵で額に包帯してるのは茨の冠の傷だろうか?
しかし、この聖痕は、インチキである。
なぜなら、キリストが掌を釘打たれたというのはカソリックの教会美術が犯した間違いだ。
手のひらに釘を打っても抜けてしまうので、実際の磔刑では、手首を釘打たれた。
ところが、聖痕者はたいてい掌から出血する。
で、時に、聖痕者に「本当は手首ですよ」と教えると翌日から手首から血が流れ出すこともあったという。
要するに自分で傷つけているだけなのだ。
よくオカルトの本に「聖痕には傷跡がない」とか書かれているが、それもウソで、実際は傷が確認されている。まあ、要するに自己暗示による自傷行為なんですな。
そんな狂信女がキリストが処刑される現場を妄想した本があって、酒乱でリハビリしていたメルギブはそれを図書館で偶然見て、『パッション』の映画化を思いついたと本人が言っている。
そんな映画のどこが「真実」なんだ? え?
それだったらメルギブの個人的解釈を加えたほうがまだよかった。
『パッション』はただひたすら忠実に隅から隅まで、この修道女の本をなぞるだけに終わっているのだ。
この修道女はバチカンから「聖女」の称号をもらっているが、
どうもただの狂信女じゃなくてなにやら政治的な匂いがする。
この女は「あの世」も幻視していて、そこで見たものがプロテスタントの主張と全然違っていたと言っている。
要するにカソリックは正しくてプロテスタントは間違っていると言いたいわけ。
挙句の果てはプロテスタントはあの世で責め苦にあうなどと書いている。
『パッション』の原作になった『我らが主イエス・キリストの悲惨な受難』も、反ユダヤ的な描写が執拗で、
実際にその本はユダヤ弾圧に利用された。
どうも単なる妄想というより「プロトコル」みたいな政治的偽書の類なのだ。