押井守「イノセンス」についてのメモ

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キャシャーン」の試写で松竹に行ったら前の試写のトラブルなのか満員なのか、人の群れで入れず、しかたがなく千代田劇場に行って「イノセンス」観た。で、いろいろ考えた。


プロットは話に聞いていたように、「ブレードランナー」のプリスだった。
プリスはセクサロイドとして作られたが、自分の惨めな役割を嘆き、
人形ではなく人間として生きるために反乱を起こし、自分を狩る刑事にアクロバチックな肉弾戦を挑む。
そのほかにも類似点が多い。レプリカントの人格は誰か実在の人間の記憶をコピーすることで形成されるし、プリスはベルメールの人形のマネもちゃんとするし、人形マニアの家に隠れたりもする。
まあ、「イノセンス」はオープニング・カットがはっきりと「ブレラン」へのオマージュだから、プリスのことは単なる前提なのだろうが。


それよりも「イノセンス」で驚いたのは、バトーが最後に「人形に悪いと思わなかったのか!」とか言って怒る場面だ。バトー(つまり監督の代弁者)は人間なんかどうでもいいわけだ。



ブレードランナー」のテーマは、「人とアンドロイド(人形)を分けるのは、どのように生きたか、という意思だ。たとえアンドロイドでも自分の意思で必死に生きれば、それは人間だし、たとえ人間でも自由意志を失って惰性で生きる者は人形も同じだ」というきわめてオーソドックスで実存主義的な話だ。これは非常に普通でわかりやすい。


ところが「イノセンス」は逆だ。
あの人形のユーザーは、ただの人形ではダメで、本物の少女の「心」を陵辱したいと思っている。
ところがキムの言葉にもあるように、バトーは(いや押井監督は)人間には「心」というか「自意識」があるから醜くて、人形にはそれがないから美しいと考えている(だからフォルムが完璧で魂のない「死体」こそが究極になる)。
自意識のない人形を「イノセンス(汚れなき者)」と呼び、バトーはそれを人の心で汚したことに怒るのだ。


この感覚は、作中の会話でも出てくるように、もう「死にたい」「生きる意思がわかない」状態なんじゃないの? 大丈夫かね、この監督。
オイラは勉強不足で知らないんだけど、押井監督って結婚して子供とかいるの?
この映画、女性からの視点がゼロ、というか、「女なんていらね、女に人格なんていらね、子供もいらね、女なんか形だけでいい。できれば人形や死体のほうがいい」という人でなしな心が作った映画なのだ。


少女を別にすると、この映画で唯一人格を持った女性の登場人物は「結婚もしてないし子供もいない」という鑑識の女性で、バトーと同じく監督のペルソナなのは明らかだが、彼女は「子造りは人造人間を作りたいという願望の代替物だ」と言う。
しかし、普通の感覚では、鉄腕アトムピノキオやコッペリアみたいに人造人間のほうが子造りの代替物なのだ。
ところが押井監督の感覚では、子供は人造人間の代替物で、本末転倒している。
これはシミュレーション社会の感覚である。


シミュレーション社会というのは、オイラ流に説明すると…。
本当のSEXはAVの中にしかない。
すべての人間は現実のセックスのとき、いかにAVに近づけるか努力する。
AVのようにできないと、そのセックスは不完全だと感じる。
理想の女性(男性)はアニメや漫画、CG、人形にしかいない。
すべての現実の女性は代替物である。
だからいつも不完全さを感じる。
完全な恋愛は小説やドラマや映画のなかにしかない。
現実の恋愛でもそれをなぞってそれに近づこうとする。
でも、それは決して完璧に再現できない。
常に恋愛は不完全だ。
本当の人生は映画やアニメやドラマや小説の中にしかない。
ドラマチックでエキサイティングで感動的な人生は。
現実はそれに近づこうとしても…。


現実を写した模倣であったはずの、小説やドラマや漫画や映画やアニメやAVの中の異性や恋愛やセックスや、いや、人生は、
いつのまにか現実よりも優位に立ち、現実は常にそれに勝てない。
シミュレーションが現実を圧倒し、
これはもう逆転しそうにない。


普通の、というか、ピノキオやアトム時代の感覚では人形は永遠に人間になれない、人間のマネゴトだったが、
シミュレーション社会と押井監督の感覚では、人形は人間の模倣ではなく、人間の理想像であり、
人間はどんなに頑張っても人形みたいに完璧にはなれない。
現実のモデルを持たない人形やアニメは、いわゆる「シミュラークル(原型を持たないシミュレーション)」で、
それゆえに完璧な理想であり、「イノセンス」だが、現実は絶対にそれに到達できない。
だから現実に絶望する。


イノセンス」の中に再三登場する「人形」「鏡」に関する問答はそういう倒錯した絶望を感じさせる。


バトーがそれほど絶望して、トグサのように家庭や子孫を残すことによるアイデンティティにも依拠できないのは、少佐という彼にとって理想の異性がネットを通じて世界に遍在する、意思だけの存在になってしまっているからだ(前作)。
あ、さっき「イノセンス」には人格を持った女性は鑑識医しか出てないと書いたけど、草薙もそうだな。ていうか人格だけの存在か。
でも、草薙はすでにバトーにとって異性や他者ではなく、
「神」であり、彼を取り巻く世界の母性であって、
生きる意志のないバトーの唯一の支えになっている。


最初に原作で少佐がネットの海に消える場面を読んだ時、筒井康隆の「エディプスの恋人」を思い出した。
「エディプスの恋人」は「神」についての物語で、「神」は交代制で、何千年だかに一回、誰か人間が一人選ばれて「神」になる。神というのはこの世界に遍在する意思として描かれている。そして筒井は、70年代終わりに「神」は女性に交代した、と書いた。 だから世界は80年代から母性的になり、男は幼稚になるだろう。「エディプスの恋人」はキャンディーズのコンサートに熱狂する少年たちの姿で幕を閉じるが、あれは80年代以降の社会のオタク化を見事に予言していた。

本当の異性は決して触れることのできない象徴的存在であり、代わりに偶像への空しい愛を注ぎ続けるしかない。
その一方でネットという母性的環境に常に包まれてぬくぬくと現実と直面せずに生きるのだ。


しかし、オイラはつくづく常識人だ。だって完全に妻と娘によって現実を認識してるトグサなんだもん。


ちなみに鈴木プロデューサーは「千と千尋」に続いてまた少女売春の話か。
両方に金出したディズニーはわかってんのか?


あ、『イノセンス』でネタになってる『ゴーレム』、ロフトプラスワンで見せます。どうしてかと言うと、これが実に、トンデモない映画で…。


あと、ちょっと気持ち悪いのは、「人形とは空っぽな理想形だ」とか言いつつ誰の理想かというと恋人ではなくて自分なんだよね。
押井監督のノートなどを見るとそれが自覚的なんだけど。
つまり美しく無垢な少女人形は「こうありたい自分」なんだ。四谷シモンさんなんかモロだけど。
つまり人形は自分の写し絵であって他者ではないわけだ。



でも、押井監督の場合、やはりバトーが監督のオルターエゴなのでまあ健全なのだけど、原作の士郎正宗の場合、作者のオルターエゴはいつも美少女なんだよな。非常に大人の哲学に基づいた彼の作品世界の中で唯一奇怪なのが、ヒーロー、つまり理想の自分が美少女ということなんだ。美少女なのは形だけで、考え方はまるっきり作者自身。
彼の作品には女性型の義体に入った男性が出てくるけど、実は全身義体草薙素子だって、本当は女性だったのか怪しいもんだ。もし義体が可能になったら士郎正宗自身はやっぱりああいう美女義体を選ぶだろう。

しかし全身を人工物に変えることが可能になったらみんな美女になるんじゃないの?
ヤクザもハゲ親父もオバハンもみーんな美女の体を選びそうだなあ。

なんでバトーとか、老いた体や不細工な外見を選んでる人たちが結構いるの? 誰か教えてください。