『ブラインドネス』パンフに原稿書きました


昨日から公開の映画『ブラインドネス』に原稿書きました。

 最近、よく似たSF映画が三本次々に作られた。
 アルフォンソ・キュアロン監督の『トゥモロー・ワールド』では、人類に赤ん坊が生まれなくなる。M・ナイト・シャマラン監督の『ハプニング』では、人々が理由もなく自殺し始める。そしてフェルナンド・メイレレス監督の『ブラインドネス』では、人々の目が見えなくなる。
 SF(サイエンス・フィクション)と書いたが、この三本の映画では、異常現象の科学的な原因はまるで解明されない。理由もわからないまま世界はゆっくり破滅していく。原因や理由はどうでもいい、この破滅を通じてもっと大事なことを伝えたいんだ、と言わんばかりに。
 それはいったい何なのだろう。なぜ、フェルナンド・メイレレスはこの題材を選んだのだろう。
 メイレレスが今までにとった映画は三本とも破滅的な状況を描いている。しかも最初の二本は恐ろしいことに事実を基にしている。
 デビュー作『シティ・オブ・ゴッド』は、ブラジルのリオ・デジャネイロで、「神の街」と呼ばれる貧民街の少年たちの成長を追う。掘っ立て小屋がひしめくスラムはゴミだらけで半分砂埃に埋もれている。ガキどもは半ズボンにサンダルで遊んでいる頃から拳銃の撃ち方を、人の殺し方を覚える。そのギャングたちより凶悪なのが警察で、殺人略奪なんでもし放題。暴力だけが支配する「神の街」は、まるで核戦争で文明が滅んだ後の世界のようだ。
 二作目『ナイロビの蜂』の舞台となるアフリカでも、掘っ立て小屋に住む貧困層はまともな医療も受けられない。彼らにヨーロッパの医薬品会社は無料で薬を提供するが、決して慈善事業ではなく、新薬の副作用を調べる人体実験だった。この実験で死んだ犠牲者は人として埋葬されることすらなく「処理」される。ヨーロッパは今も貧しいアフリカの人々をモルモット並みに扱っているのだ。
 この二本に対して『ブラインドネス』は寓話的だ。どこともしれない国が舞台で登場人物にも役名がない。それでも描かれる状況の酷さは他の二本と共通している。視力を失った人々が家畜のように収容所に隔離される。その中では『シティ・オブ・ゴッド゙』と同じように銃を持った独裁者が君臨する。彼らは食糧を独占し、それを購う富を持たざる者たちを奴隷のように扱う。
 この弱肉強食の地獄に対して、主人公たちは無力で受身だ。
シティ・オブ・ゴッド』の主人公ブスカペはカメラが大好きなオタク少年。荒々しいギャングたちのなかで育ち、理不尽な暴力を目撃しながらも、度胸がないので傍観するしかない。ただカメラマンになって街を出る日を夢見ながら。
ナイロビの蜂』の主人公はケニア駐在のイギリス外務省職員ジャスティン(レイフ・ファインズ)。アフリカの貧しい現実を目の前にしても「僕ごときが何をしてもどうにもならない」と目を背けて趣味の園芸に没頭する。
ブラインドネス』の医師は収容所の中でも人間らしく生きようとするが、暴力による独裁に屈し、妻が犯されても何もできず、別の女性との情事に逃避する。
 これが現実だというのか。人間というものの。 
 国際視覚障害者連盟のマーク・マウラー会長は『ブラインドネス』を激しく非難した。「目が見えなくなった人々が何もできない存在として描かれています。卑しく、利己的に振る舞い、堕落していきます。この物語では目が見えないということが、人間の悪しき考えや行動のメタファーとして使われているのです」
 彼の言うとおり、『ブラインドネス』では視力を失った人々が理性を失ったように野獣化し、強欲になる。見えないというのに貴金属に狂喜する場面など「目開きは金に目がくらむ」と笑っていた座頭市に怒られそうな描写だ。
 だが、それだけではない。その地獄に、メイレレスはいつだって小さな希望の種を投げ込んでみせる。女性の姿をした希望を。
シティ・オブ・ゴッド』のブスカペのカメラマンへの夢を支えたのは大好きな美少女への恋心だった。写真への情熱はブスカペを犯罪の誘惑から救い、ついに彼はカメラを武器に暴力に立ち向かう。
ナイロビの蜂』のジャスティンは、貧困層のためにボランティアをしていた美しい妻(レイチェル・ワイズ)を突然殺されてしまう。そして妻の死の真相を探るうちに今まで見えなかったアフリカの現実に目を開き、製薬会社の犯罪と戦うことになる。
ブラインドネス』の医師は絶望の淵に落ちかけるが、妻(ジュリアン・ムーア)の愛で立ち直り、再び他の患者たちを救う意思を取り戻し、我が家に招く。
 医師の家で彼らは家族になる。白人、ラティーノ、黒人、そしてアジア人。その家は世界そのものだ。見えなくなったおかげで、人種の違う彼らがこんな風にひとつになることができた。見えなければ肌の色や美醜や見た目は気にならない。気になるのはもっと大事なことだ。
ブラインドネス』の市街地のシーンはメイレレスの故郷サンパウロで撮影された。サンパウロとは聖パウロという意味だ。教会で神父が聖パウロのエピソードを語っている。聖書によればパウロはもともと熱心なユダヤ教徒で、新興勢力であるキリスト教徒を弾圧していたが、ある日、強烈な光に打たれて視力を失い、キリストの声を聴いた。三日間、パウロは何も食べられずに苦しむが、キリストへの祈りで「目からウロコが落ちて」視力を取り戻し、以後、キリスト教の布教に命をかけた。この物語に『ブラインドネス』が大きな影響を受けているのは明らかだ。
 見えないほうが見えるものがある。正義(ジャスティス)の象徴であるローマ神話の女神ユースティスは人の罪を裁くとき、外見に惑わされないよう目隠しをしているではないか。
 メイレレスは撮影前、出演者たちに包帯で目隠しをして見知らぬ場所に置き去りにする実験を行ったという。目が見えないことの恐怖を体験するためだ。ところが彼らは誰かに突き飛ばされたり財布を取られたりはしなかった。必ず、通りがかりの人が親切に手を引いてくれて「行きたいところまでご一緒しましょう」と申し出たそうだ。 
 僕が『シティ・オブ・ゴッド』でいちばん好きなのは、ブスカペがとうとう自分もギャングになろうと決心してバスの運転手などを強盗しようとするのだが、襲おうとした人たちに次々に親切にされてしまって気が抜けて諦めるシーンだ。『ナイロビの蜂』ではケニアの道を歩くレイチェル・ワイズが地元の子供たちに囲まれるシーン。これは脚本になく、子どもたちもエキストラではなくて、そこいらの子たちがロケ中に勝手に集まってきたのを撮影しただけだそうだ。レイチェル・ワイズと子どもたちは朗らかに挨拶を交わす。
  「こんにちわ」
  「こんにちわ」
  「みんな元気?」
 優しさもまた人間の現実なのだ。