「柔道龍虎榜」やれば、できる

TomoMachi2004-09-21

やればできるさ
できなけりゃ
男はもう一度立ち上がる
くやしかったら
泣け 泣け
泣いてもいいから前を見ろ
三四郎
それが勝負というものさ


中国語なまりの演歌「姿三四郎」を、
髪も髭もぼうぼうに伸びたホームレス風の男がジャージを着て歌っている。


これがジョニー・トー監督の最新作『柔道龍虎榜』Throw Downだ。
http://www.throwdownmovie.com/


ジョニー・トーはこの映画を黒澤明の『姿三四郎』に捧げているが、どうも主題歌とタイトルは70年代版が原典らしい(ここに香港版レコジャケあり)。
http://www.klnjudo.com/judo-mp3.htm


姿三四郎」を歌っていた男はジンちゃんという知恵遅れの中年男で、
誰からかまわず「姿三四郎ごっこやろうよ。僕は三四郎で君は檜垣」と声をかける。
ジュースをストローでボコボコして遊ぶのが好き。


ジンちゃんの父は町の柔道道場の道場主だが、弟子は一人もいない。唯一、後継者と期待をかけていたルイス・クーは今はナイトクラブの雇われ支配人兼ハコバンのギタリスト。毎日酒と博打に明け暮れて柔道など忘れている。
そのナイトクラブのドアを開いたのは、黒帯で縛った柔道着をかついだ五分刈の青年アーロン・コックと、クラブ歌手志願のフーテン娘チェリー・インだった。


この映画、何が奇妙かと言えば、フーテン娘を除く登場人物のほぼ全員が柔道をたしなんでいるのだ。だからお決まりの酒場の大乱闘も殴りあうのではなく、全員で投げ合うのだ。クンフーの代わりに柔道がある感じ。だから、香港映画風に手数も多くて、何度も何度もアスファルトに叩きつける。そんなことしたら死人の山になると思うけど……。


また、黒澤に捧ぐといいながら、雰囲気はむしろ日活風。なにしろナイトクラブが舞台で全編真っ暗だし、アーロン・コックはクラブに登場するや、いきなりサックスで一曲吹いて見せる。
それに登場人物の全員がどこかヘン。主人公のクーを追い込むヤクザは、朝から晩までゲーセンにたむろして客相手に格ゲーの対戦を挑みまくる。小学生相手に本気でエアーホッケーして泣かせたりする。


そして全シーンでカメラワークや演技が異常。熱血格闘技映画には程遠い、体温の低い画面。真正面から撮った左右対称の構図が多用され、登場人物の多くは無表情でセリフもほとんどしゃべらず、微妙な間でクスクス笑わせる。肝心の乱闘シーンでも戦う男たちはシルエットになり、スポットライトを浴びて「姿三四郎」を熱唱するジンちゃんの姿ばかり写し出される。ちょうど『DOAファイナル』のエンドクレジットの大道歌手のように。


そう、ジョニー・トーは香港の三池崇史なのだ。


ゴミ映画『フルタイム・キラー』、ハードボイルドの傑作『PTU』、トンデモ映画『マッスル・モンク』、そして実験的意欲作『ブレキング・ニュース』と、この二年間に狂ったように映画を作りまくり、当たりも大きいが、ハズレも大きくて、それも中途半端なハズレじゃない。ハズしすぎて地球を一周して傑作に見えるという、まさに三池的監督なのだ。


この『柔道龍虎榜』も『姿三四郎』を歌いながら、青畳の道場はほとんど画面に映らず、宿敵との決闘は『姿三四郎』と同じく風が吹き荒れるススキ野で行われるが、そこにアクション映画的なカタルシスはない。なにしろ、この映画には敵役とか悪役がいないのだ!


じゃあ、ハズシなのか、といえば、そうではない。


この映画は傑作である。


オイラは三回泣いた。


これはニューシネマやヌーベルバーグ、70年代日本の青春ドラマに近い映画なのだ。


ルイス・クーはちょっと金をつかむとすぐに博打でスってしまう人間のクズ(ライナスの毛布のようにタオルを決して離さない)。アーロン・コックは人を見るとすぐに柔道の勝負を挑むが、将来の展望も何もない大人になれない柔道バカ。チェリー・インは自分はアイドル歌手になれると信じているが見込みはなく、日本に渡ってAVに出ればスターになれると考えているバカ娘(役名は小夢たん)。ヤクザが彼らを見て言うように「見下げ果てた奴ら」なのだ。
このダメ男女三人組の共通点は半人前のくせに「自分は一人でも生きていける」と他人に背を向けて現実からも目を背けているところだ。しかし、彼らは自分の弱さを認め、互いを支えあうことを覚えた時、初めて現実に向かい合う。
木に引っかかった風船を取るために三人が肩車をするという『俺たちの旅』そのものの場面がこの映画を象徴している。


 そして、この映画における「柔道」は柔道以上の何かを意味している。クライマックスで主人公ルイス・クーは柔道で戦って敵を倒すのではなく、今まで背を向けていた人々と柔道を試合うことで心をつないでいくのだ。


敵は己の中にしかいない。いつだって。


最も感動的なのが中盤、クーがいつもどおり地下の闇カジノでスリそうになった金を、小夢がつかんで逃げ出すシーンだ。紙幣を舞い散らせながらスローモーションで夜の街を駆ける小夢。追いかけるカジノの用心棒。彼らを止めようとするクー。そのまま逃げる小夢。しかし立ち止まって振り向くと用心棒に袋叩きにあって血みどろになったクーがビッコを引いて歩いてくる。その片足に靴がないのを見た小夢は用心棒たちがいる場所まで靴を取りに戻る。戻ってきた小夢を見て驚く用心棒。しかし彼女に気圧されて何もできない。小夢は靴を拾ってクーの後を追い駆け、靴を履かせてあげる。
二人の心が初めて通いあう、クーが初めて現実に立ち向かうこのシーンを、ジョニー・トーはセリフ一切なし、細かいカットつなぎもなしの長回し横移動で見せる。


これぞ映画だ。


エンディング、香港オリジナルの歌手による「姿三四郎」の歌が染みる。


「泣いてもいいから前を見ろ」