『ディパーテッド』劇場用パンフに原稿書いてます

TomoMachi2007-01-20

今日から公開の『ディパーテッド』の劇場用パンフに原稿書きました。
内容は冒頭のジャック・ニコルソンのジェイムズ・ジョイスの引用の意味や、
ディカプリオと恋に落ちるカウンセラーの役名の意味、
マット・デイモンがアパートから見る黄金のドーム(ボストン・ステートハウス)の意味などについてです。

 Departedとは、「この世を去りし人々」という意味で、映画ではディカプリオ扮するビリーの母の墓の上に置かれたカードに「信心深き故人Departedは天国に召される」と書かれている。カソリック教会で使われる言葉だ。
「私はカソリックとしては堕落したが、カソリックであることからは逃げられない」
 そう言うスコセッシのすべての作品にはカソリック独特の罪悪感が通底している。『デパーテッド』もまたカソリックの視点なしには理解しにくい。
 映画はジャック・ニコルソン扮するフランク・コステロが少年時代のコリンを誘惑する場面で始まる。これはスコセッシの『グッドフェローズ』で主人公ヘンリーが少年時代にヤクザのジミー(ロバート・デニーロ)に憧れるシーンとそっくりだ。しかしコステロの言葉はただのヤクザとはちょっと違う。
「昔、俺たち(アイルランド系)はカソリック教会しか持っていなかった。コロンブス騎士団は賢かったよ。この街(ボストン)で縄張りを広げた。アイルランド系は差別のせいでまともに就職もできなかったが、二十年後には大統領(ケネディのこと)になった。(暗殺されちまったが)安らかに眠れよ」
 コロンブス騎士団とはカソリック男性の友愛会で、ボストン近郊で生まれ育ったアイルランド移民の子孫ケネディもその会員だった。コステロのこの短いセリフに、貧しいアイルランド系がカソリック教会を足がかりに政界にまで権力を伸ばした歴史が凝縮されている。
 コリン少年も貧しさから抜け出すために聖職者を目指している。彼が司祭の後ろで香炉を振る姿がインサートされる。それはスコセッシ自身の過去でもある。スコセッシ少年も小学校の時にアイリッシュ修道女会で初めてカソリックの薫陶を受け、聖職者を目指してイエズス会の神学校に進学したのだ。しかし、コステロはコリンにもう一つの道を示す。
「教会はお前に命じる。跪け、立て、跪け、立て。それがいいなら勝手にしろ。だが、男は自分の道を行くもんだ。与えられるんじゃない。自分で決めるんだ。Non serviam」
「ジェームズ・ジョイスですね」コリンはコステロの教養に驚く。
 そのラテン語アイルランドの作家ジョイスの自伝的小説『ある若き芸術家の肖像』の引用だ。ジョイスの分身である主人公スティーブン・ディーダラスは貧しさから脱出するために聖職者を目指してイエズス会の学校に通うが、娼婦とのセックスに溺れて罪の意識に苦しむ。スコセッシもまたそうだった。彼の自伝的映画『ドアをノックするのは誰?』(67年)の主人公もまた娼婦とのセックスに溺れては教会で懺悔する。結局、スコセッシは神父になるのを諦め、映画監督の道に進むが、ディーダラスも(つまりジョイスも)カソリックを捨てて作家の道を進む決心をする。そして、ディーダラスの神への決別の言葉が、コリンに信仰を捨てさせようとコステロが言ったNon serviam(私は神に仕えない)なのだ。
 実はこの言葉にはさらに原典がある。ミルトンの叙事詩失楽園』で天使長ルシファーが神に叛逆した時の言葉なのだ。ルシファーはサタンとなり、悪魔の軍団を率いて神の軍団に戦いを挑む。
イーストウィックの魔女たち』でそのものズバリ悪魔を演じたニコルソンは、コステロを人間の姿をした悪魔として演じている。山羊のようなあご髭は悪魔のシンボルで、彼の顔がオペラの桟敷席で真っ赤に照らされると悪魔そのものになる。コステロは神父をコックサッカー(同性愛者)呼ばわりするが、これは数年前、ボストンで起こった神父による少年レイプ事件を茶化している。そして修道女にワイセツな落書きを見せて冒涜する。
失楽園』で神との戦争に敗れたサタンは、神に愛される人間を誘惑して復讐する。コステロは神の道に進むコリンを悪へと誘い込む。Departedには「(本筋などから)外れた者」という意味もある。
 コステロの登場場面にはローリング・ストーンの「ギミー・シェルター」が流れる。スコセッシは『グッドフェローズ』や『カジノ』でもドラッグと暴力のテーマとしてこの曲を使っている。「ギミー・シェルター」はスコセッセシにとっておそらく象徴的な意味がある。「戦争、子どもたち、その距離は銃弾一発/レイプ、殺人、銃弾一発で」と歌い「俺に避難所をくれ」と叫ぶ「ギミー・シェルター」は、1969年、女性や子どもたちが虐殺されていたベトナム戦争を嘆いてミック・ジャガーが書いた曲だ。同じ年の8月、ニューヨーク州ウッドストックで史上最大の無料コンサートが開かれ、そのフィルムをスコセッシは編集していた。ウッドストックに集まったヒッピーの若者たちは愛し合うことで殺し合いを終わらせようと訴えた。しかし、そのわずか4ヵ月後、カリフォルニア州オルタモントで開かれたローリング・ストーンズの無料コンサートで、会場警備に雇われた暴走族ヘルズ・エンジェルズがステージ最前列の観客をストーンズの目の前で刺殺した。その悲劇を記録した映画のタイトルが『ギミー・シェルター』なのだ。この歌は愛の理想が消えて逃げ場のない世界を象徴している。
 オルタモントの悲劇はストーンズが『悪魔を憐れむ歌』を歌った「呪い」だと言われた。『悪魔を憐れむ歌』は人類を誘惑してきたサタンの自己紹介であり、「ケネディを殺したのは誰だ? 私と君たちだ」と歌う。コステロの最初のセリフは悪魔の自己紹介でもあるのだ。
「『デパーテッド』は神のいない世界だ」スコセッシは言う。誰も信用できない。誰もが誰もを裏切り、誰も罪など感じていない。アイルランド系シンガーのヴァン・モリソンが歌うピンク・フロイドの『コンフォタブリー・ナム』が聴こえる。「もしもし、中に誰かいる?いたら返事してくれ」と自分の良心を呼ぶが返事はなく、「大人になって夢は消え果てた。でも、もう何も感じない。つらくない」という歌詞だ。
 コリンは父親代わりのコステロすら裏切り、政界進出の野望を抱く。コリンのアパートの窓から見えるマサチューセッツ州議会議事堂の金色のドームは、コステロのモデルであるホワイティ・バルジャーの弟が政治家として働いた場所でもある。コステロはなぜか満足そうに微笑んでコリンに殺される。コリンを完璧な悪魔に育て上げたからだ。
 スコセッシはジョン・フォード監督の『男の敵』(35年)の映像を引用している。『男の敵』はイギリスの植民地だったアイルランドが舞台で、主人公ジポーは独立運動の地下組織のメンバー。彼は金のために同志フランキーを警察に密告するが、フランキーは警官に射殺されてしまう。裏切り者と疑われたジポーは別の同志にスパイの濡れ衣を着せるが、ウソがバレて仲間に撃たれる。瀕死のジポーは教会にたどりつき、悲しみに沈むフランキーの母親に許しを乞う。許しを得たジポーは笑顔で神に召される。コリンもまた最後に裁きが下される瞬間、「OK」と言って薄っすらと微笑む。彼が最期に見たのは州議会のドームだったが教会の大伽藍に見えたのではなかったか。
 この世界でただ一人、罪の意識に苛まれ続けるのがビリーだ。彼は真実を誰にも打ち明けられずに苦しんで精神科医のマドリンを訪ねる。マドリンの家の格子状のドアを挟んでビリーが話を聞いてくれと懇願する場面は、それがカソリック教会の懺悔室で、マドリンが告解師であることを暗示する。
 罪に汚れた世界で最後まで心を汚さなかった「汚れた顔の天使」ビリーは、結局、The Departed(故人)となる。ただ、コリンの最後の良心によって殉教者として葬られる。全人類の罪を一身に背負って殺されたキリストのように。
 しかし希望は残されている。マドリンに宿った命だ。マドリンという名前はマドレーヌと同じく「マグダラのマリア」を意味する。スコセッシの『キリスト最後の誘惑』で、マグダラのマリアはキリストの子どもを生む。マドリンの家を訪れた天使ビリーは、マリアにキリスト受胎を告知しに現れた天使ガブリエルだったのだ。
 ストーンズの「ギミー・シェルター」も、愛こそが最後の希望なのだと歌っている。
「愛、聖女(ルビ:シスター)、必要なのはキスだけさ」