イーストウッドと硫黄島

TomoMachi2005-04-15

ウェブマガジン「スカパー・シネマ倶楽部」に、クリント・イーストウッドの『ハートブレイク・リッジ』とジョン・ウェイン主演の名作『硫黄島の砂』の関係について書きました。

 今月6日、クリント・イーストウッドが来日した。硫黄島の激戦を映画化する準備のためだ。製作は『プライベート・ライアン』のスティーブン・スピルバーグ(彼は幼い頃からの第二次世界大戦マニアだ)。
 イーストウッド硫黄島と聞いた時、なるほど、と思った。なぜなら、86年に彼が製作・監督・主演した『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』は、49年の映画『硫黄島の砂』をベースにしていたからだ。というわけで、今回はこのジョン・ウェイン主演作を紹介しよう。
『ハートブレイク・リッジ』も『硫黄島の砂』も、主人公は海兵隊の鬼軍曹。軍隊にのめりこむあまり妻と子供に逃げられ、そのせいでアル中気味になっている。しかし、ブーツ・キャンプ(新兵訓練合宿)でヘナチョコな兵隊たちを必死でしごくうちに、軍曹と新兵の間にはいつしか親子のような情愛が生まれ、ひとつの家族になっていく。そして出動命令が下る。戦争だ! 
『ハートブレイク・リッジ』イーストウッド監督作としては『ブロンコ・ビリー』『ルーキー』『トゥルー・クライム』に連なるダメ中年コメディ路線で、明るく楽しい戦争映画だ。特に酒場のシーンは往年の西部劇のようだが、それもそのはず、原型となった『硫黄島の砂』がジョン・ウェインの西部劇の変形として作られていたからだ。
硫黄島の砂』は、白頭鷲(アメリカのシンボル)を使ったリパブリック映画のマークに続いて、やはり白頭鷲をデザインした海兵隊の紋章のアップで始まる。そして「海兵隊賛歌」マーチが高らかに鳴り響き、「この映画は合衆国海兵隊の協力で作られた」と字幕が出る。
1949年当時、海兵隊は消滅の危機に立たされていた。海兵隊は海軍の陸戦部隊だったが、海兵でも歩兵でもない、どっちつかずの部隊だ、陸軍があるのだから必要ない、とアメリカ政府は海兵隊の廃止を検討していた。そこでPRのために、二本立て上映の添え物用の低予算西部劇を主に作っていたリパブリック映画が企画した『硫黄島の砂』に全面協力したのである。
 主演のジョン・ウェインは最初、『硫黄島の砂』に乗り気ではなかった。西部劇の大スターだったが戦争映画のヒット作がなかったからだ。しかし海兵隊から直接嘆願されて出演を承諾した。ウェイン自身は第二次大戦中、入隊を志願したが、既に30歳代後半だったうえに、家族も抱えていたので入隊できなかったという。戦闘経験のないウェインは、『硫黄島の砂』を自分の土俵に引きずり込もうとして、ジョン・ウェイン主演の西部劇の脚本家ジェームズ・E・グランドを連れてきて脚本を書き換えさせ、西部劇の要素を入れさせた。
たとえば、『硫黄島の砂』の話の軸になるのは、ウェイン扮する鬼軍曹と、戦死した彼の親友の息子コンウェイとの確執だ。厳しすぎた父を憎むコンウェイは、父のように振舞うウェイン軍曹にとことん反発する。実はコンウェイを演じるジョン・エイガーは、その前年、『アパッチ砦』(48年/ジョン・フォード監督)でウェイン扮する騎兵隊の隊長の娘婿役で映画デビューしている。また、この父子の確執は『赤い河』(49年/ハワード・ホークス監督)の老カウボーイと息子(モンゴメリー・クリフト)の確執も連想させる。ジョン・ウェインの西部劇で最も有名なセリフは、彼が若い騎兵やカウボーイたちをどやしつける「出発!」の掛け声「Saddle Up!」だが、『硫黄島の砂』のウェイン軍曹の決めゼリフも「Saddle Up!」だ。これは「鞍を馬に乗せろ!」という意味なので、『硫黄島の砂』のスーパーバイザーを務めた海兵隊は「軍隊ではこんなこと言わない!」と指摘したが、アラン・ドゥエイン監督はリアリズムよりもウェインの西部劇スターとしてのオーラを選んだ。
 ウェインはこの軍曹役で初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされた。なかでも、飲んだくれた軍曹が酒場で娼婦を引っ掛けて彼女の家に行くシーンは素晴らしい。彼女はウェインが渡した金で赤ん坊のミルクを買う。赤ん坊の父が誰かはわからないが、兵士の一人であることは間違いない。妻子に逃げられたウェインはいとおしげに赤ん坊をあやし、家庭の思い出に一瞬ひたると、何もせずに帰っていく。
硫黄島の砂』は、ニュージーランドのブーツ・キャンプでウェインの部下たちのキャラクターをコミカルに紹介していく。当時のアメリカ映画には非常に珍しく、兵隊たちの民族的バックグラウンドを強調している。イタリア人のラガッヅィ、アイルランド人のフリン兄弟、ギリシア人のヘレンポリス、ポーランド人のチョインスキー、ユダヤ人のシュタイン。海兵隊員のほとんどが新移民の息子だ。新移民とは19世紀末にヨーロッパから渡って来たが、ほとんどが貧農出身で金も学歴もなく、すでにアメリカを支配していたWASPからは差別された。ウェインの新兵のなかで唯一イギリス系のシップリーもテネシーの貧しい農家の出身だ。海兵隊は敵が待ち構える地点に上陸急襲するのが任務だ。そんな危険な海兵隊に志願するのは、今も昔も彼らのような貧しい若者ばかりだ。新兵たちは最初、英語にもそれぞれの国の訛りが残っているが、二ップス(日本兵を差別的にこう呼ぶ)との戦いを通して団結し、アメリカ人として生まれ変わっていく。イタリア系のラガッヅィが初めて正しい星条旗の畳み方を教わり、それを東欧やロシア系の後輩達に伝えていく場面は象徴的だ。
 そして1945年2月19日、硫黄島上陸作戦が開始される。
日本とグアムの中間あたりにある硫黄島は面積わずか20平方キロの小さな孤島だが、アメリカ軍は東京を空襲する空港建設のために、どうしてもここが必要だった。硫黄島に押し寄せる4万の米兵を迎え撃ったのは、わずか2万の日本兵だった。指揮官の栗林中将はアメリカ留学経験もある合理的で明晰な頭脳の指揮官で、「一人一殺」にすぎない無駄な突撃よりも「一人十殺」いや「一人百殺」を目指した。そこで地面に隠れて米兵を引きつけて殺す持久戦を計画し、地下壕を建設させた。しかし、硫黄島はその名の通り硫黄ガスが噴き出す火山島で、草も生えない地面の下は地熱が渦巻いており、地下壕を掘る作業は地獄だったが、日本兵たちは本土を空襲から守るべく必死で作業を完遂させた。
 上陸の前にアメリカ軍は連日凄まじい空爆と艦砲射撃を繰り返した。地形がすっかり変わってしまった硫黄島に上陸した海兵隊員たちを、地下でじっと爆撃に耐えていた日本兵たちが襲った。米軍は一日目だけで2千4百人以上の死傷者を出した。
硫黄島上陸のシーンは、米海兵隊の本物の記録フィルムと、サンディエゴの海岸で本物の海兵隊員を動員して撮影したフィルムを巧みに編集してドキュメンタリー・タッチの迫力を生み出している。日本軍の大口径機銃とロケット砲の餌食になる海兵隊員たち。前半で楽しく笑っていたウェインの部下たちも一人、また一人と倒れ、最終的にはわずか5人に減ってしまう。実際、米軍側は4万人のうち半数以上の2万7千人が死傷した。日本軍の死傷者2万1千人を上回っていたのだ。
2月23日未明、ジョン・ウェインの部隊に摺鉢山攻撃命令が下る。山頂に星条旗を打ち立てるのだ。遮るもののない斜面を機銃攻撃を受けながら登っていく海兵隊。ついに頂上に達したウェイン軍曹は一息ついてタバコをくわえる。緊張が緩んだその瞬間、軍曹は狙撃されて倒れる。父のような彼の死に愕然とするコンウェイは、別の部隊の兵士たちが山頂に大きな星条旗を押し立てる姿を見る。これはあまりにも「硫黄島星条旗」写真の再現である。あの写真で星条旗を立てた海兵隊員6人のうち3人、レネ・A・ガニョン、ジョン・H・ブラッドレー、そしてアイラ・H・ヘイズが『硫黄島の砂』に本人の役で特別出演している。残りの3人は全員、硫黄島で戦死した。つまり、摺鉢山が占領された後も激戦は続いたのだ。だから、ウェインが死んだ後も、コンウェイはすぐに涙を振り切り、軍曹とまったく同じ口調で「Saddle Up!」と叫んで次の敵兵を探しに行く。
ちなみに、6人の海兵隊員と星条旗の写真は、山頂占領の瞬間ではない。同日の午後に大きな旗を使い、ドラマチックなポーズをつけて演じられた「ヤラセ」である。だから『硫黄島の砂』の冒頭には「史実においては最初に星条旗を立てたのはアーネスト・I・トマスである」という但し書きがある。
しかし、海兵隊はヤラセ写真を演じた3人の生存者を英雄としてPRに使い、この『硫黄島の砂』にも出演させた。3人は他の犠牲者達への罪悪感に苛まれた。特にアリゾナネイティブ・アメリカン、ピマ族出身のヘイズはひどく追い詰められていった。また、新移民たちの地位は大戦後向上したが、インディアンたちは相変わらず居留地に押し込められ、職はなかった。アルコール中毒になったヘイズは1955年、自宅近くの道路の溝で野垂れ死んでいるのを発見された。
ジョン・ブラッドレーは94年まで生きた。イーストウッドの映画は、彼の息子ジェームズが父の思い出を語った『硫黄島星条旗』が原作である。