菊地成孔先生の『セッション』批判について(初期ver.)

日本では今日(4月17日)から公開される映画『セッション』を、ジャズ専門家である菊地成孔先生がジャズ音楽家の立場から酷評しています。


それを公開前に読んだ人々から「素晴らしい批評」などと評判を呼んでいます。
「自分はジャズがわからないが、ジャズ専門家が観れば駄作なんだろうな」とか
「映画はまだ観てないが、ジャズを知らない100人の評価よりも菊地さん一人を信じる」
「これを読んで『セッション』を観る気が失せた」という人まで本当にいるんです。

ジャズ・ドラマーを目指した若者が監督した映画『セッション』を潰そうとする菊地先生は『セッション』の、ジャズ・ドラマーを目指す若者を潰そうとするJKシモンズ扮する先生にダブります。
主人公を「リズム音痴のガキ」と罵倒し続けるのも、まさに劇中のJKシモンズそのものです。

私は菊地先生が罵倒し続けている「ジャズ素人」ですが、『セッション』の監督デミアン・チャゼル(30歳)は違います。
彼自身がドラマーを目指してひどいシゴキで挫折した経験を基にして『セッション』を作ったそうです。
チャゼル監督デビュー作のインデペンデント映画『ガイ&マデリン・オン・ア・パーク・ベンチ』(2009年)は、ゴダールの『はなればなれに』を思わせる、ヌーヴェル・ヴァーグ・タッチのジャズ・ミュージカルでした。
脚本を書いた『グランドピアノ 狙われた黒鍵』も、コンサートでミスをしたら殺すと脅迫された若手ピアニストの話で『セッション』のスリラー版ともいえます。

「ジャズ素人」の私には、菊地先生の1万6千字も費やした文章の論旨がちゃんとつかめていないかもしれませんが、先生の『セッション』批判のポイントを文中から抽出すると、以下のようになるかと思います。

1 主人公は「ジャガジャガうるさいばかりの不快なドラミング」で「グルーヴがない」

2 主人公がドラマーとしてバディ・リッチに憧れるが、引用されるのはチャーリー・パーカーで、原題の「ウィップラッシュ」が8ビートのジャズ・ロックなので、ジャンルが「ぐちゃぐちゃ」

3 出血シーンが「愛を欠いた」「痛々しいだけ」である。

4 JKシモンズ扮する鬼先生の「作曲も選曲も編曲も、肝心金目の指揮ぶり」も「中の下」で、「この点が本作の最大の弱点」。

5 鬼コーチのシゴキ描写はまるで「巨人の星」、「スポーツ根性マンガ」のようだし、「スポ根としても出来が悪い」。

6 このような教師がいたら「訴えられる」か「生徒にリコール」される。(劇中で実際に訴えられている)

7 「この程度の鬼バンマスは、実際の所、さほど珍しくない」。

8 この映画は「恐怖と憎悪を刺激する、マーケットリサーチばっちりの現代駄菓子」である。

9 白人が黒人音楽であるジャズを、音楽大学でスパルタ式に教えるのは、ジャズを「二流のクラシック」として衰退させる行為だ。

ちなみに大学でジャズを教えている菊地先生は、2007年の黒人音楽映画『ハッスル&フロウ』を「死ぬほどよくできている」と絶賛し、その年のベストにも選んでいます。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20071122


では、「ジャズ素人」の私が僭越ながら、自分の素人考えを書かせていただきます。

★以下は結末にふれていますので、映画をご覧になった後でお読みください。

菊地先生のおっしゃる通り、主人公は「ただ手数が早ければいい」と思い込んでいるだけの少年で、グルーヴもつかめていない、
ジャズを人生の成功のための武器としか考えていない、つまりジャズがわかってない、というか、音楽がわかってないと思います。
彼にとって音楽は貧しい自分と父をバカにしてきた世間を見返すための武器でしかないのです。
だから、JKシモンズ先生は彼にダメ出しを続けたし、がむしゃらに叩くだけだから出血したんでしょう。
繰り返しますが、この主人公は監督自身の経験に基づいていると監督が語っています。
菊地先生のおっしゃるような「マーケティングばっちり」ではなく、監督個人の思いから作られた映画です。
製作費4億円以下の超低予算インデペンデント映画なのでマーケティングが関与する余地はあまりないでしょう。


彼をシゴく、JKシモンズ先生自身も、音楽を人を傷つけるために使います。
彼は意味もなく主人公を潰すことしか考えてません。
そういう時は「意味もなく」ではなく、「いったいなぜだろう?」と考えてみましょう。
たいていの映画では、描かれなくても、重要な人物の行動の理由が作者の中にはあるものです(ない場合もあるが)。
おそらくJKシモンズ先生は、自分も演奏家になりたかったのでしょう。
それが何かの理由で挫折したんでしょう。
それこそ、菊地先生がおっしゃるように、シモンズ先生はアーティストとしては「中の上」程度でしかなかったからではないでしょうか?
だから、若い才能を、おそらくは無意識の嫉妬で潰そうとしてしまう。
シモンズ先生が挫折した音楽家だとすると、そこにも挫折した音楽家である監督が重ねられているかもしれません。


 二人とも、ジャズを、音楽を他人を潰すための武器として使っているわけで、音楽家として、いや、アーティストとして明らかに間違っているのです。
明らかにそのように描かれています。
 その意味で菊地先生の指摘の通りです。まさにそれが監督の意図ではないでしょうか?
 先生のお好きなプロレスに例えれば、金と名声のためにレスラーを目指す青年と、トップ・レスラーになる夢が挫折して若手潰しで鬱憤を晴らそうとするコーチの物語にでもできるでしょう。


 菊地先生が『セッション』を批判する個々のポイントはすべて仰る通りだと思います。
 ただそれは物語の欠陥ではなくて、キャラクターの欠陥として作者が意図して仕掛けたものであって、
 フィニッシュで昇華されるように機能していると思います。
 菊地先生が批判している「恐怖と憎悪」もこのラストで昇華させるために蓄積されていくのだとと思います。
 このラストで、主人公たちがジャズ本来の楽しさを思い出すことは、名門大学でジャズの技術を特訓すること自体への批判にもなっています。
 音楽もプロレスも、グルーヴとスイングのアートです。


菊地先生は『セッション』批判文のなかで、ご自分の「鬼バンマス」体験についてこう書いています。
素晴らしい文章なので引用させていただきます。

 菊地雅章氏という(中略)作曲者のバンドにワタシが参加した時は、この映画のような激しい物ではなく、陰湿で粘着的な物でしたが、目を覆うようなハラスメントが行われた事がありました。(中略)
 ワタシは、そのターゲットとなった先輩プレイヤーが半べそをかかされるのを見て、菊地氏を音楽家として心から尊敬していなかったら、本番が出来ないように、一本残らず指を折ってやろう、いや、一本だけで良い。切断するのであれば。と、心中で何度も何度もシュミュレーションを重ね、いつでも実行出来る様に待機していました。
 しかし結果としてステージは素晴らしく、病的な鬼バンマスである菊地氏も、ハラスメントを受けた先輩も、殺意を抱いていた若き菊地成孔氏も、全員グルーヴィーでハッピーになったのです。
 これこそが音楽の、正常な力なのです。


 まさにその通りのことが起こるのが『セッション』のラストではないでしょうか。


 あの演奏は最初は主人公の先生への逆襲ですが、そこに先生が「よし」と参加した時、二人はそれまでどうしてもつかめなかったグルーヴをつかんでスイングします(少なくともそのように描かれています)。菊地先生のおっしゃる「グルーヴの神」が降りてきたのです。

 最初、主人公は鬼先生へのパンチのような気持ちでドラムを叩きはじめます。

 退学させられた口惜しさも、鬼先生への憎しみも、愛する女性を失った悲しみも、挫けた立身出世の夢も、何もかもこの演奏に叩きつけます。

 プロレスに例えると、それまで悪役に汚い手でさんざんなぶりものにされてきたベビーフェイスが、耐えて耐えて耐え忍んだ果てに堪忍袋の緒を切らして怒りの反撃ラッシュを炸裂させる瞬間です。

 観客は、ついに出た! やったれー!と拳を突き上げます。

 監督自身にとっても自分の夢をつぶしたコーチへの復讐の瞬間でしょう。

 しかし、『セッション』は悪役を叩きのめしたところで終わりません。

 叩き続けるうちに、主人公からは何もかも吹き飛んでいきます。彼の周りからすべての世界が消えて行き、音楽と一つになっていきます。

 観客は映りません。

 先生は主人公がドラムに叩きつけるすべての感情を受け止めて行きます。

 言葉の代わりに、主人公はドラムで先生に言いたかったことすべてを語ります。

 それを言葉を聴くように先生は何度もうなずきながら聴いています。

 そのうちに先生は「わかった。わかったよ」とでも言うように主人公を手でなだめていきます。

 主人公の激しいビートがだんだん静まって行きます。

 先生はまたうなずきます。わかった。お前の怒りはわかった。悪かった。

 二人は思わず微笑んで見つめ合います。

 格闘家たちがパンチを交わし合い、技をかけあった戦いの果てに世界のすべてを忘れてしまうように。

 楽しい。

 音楽は楽しいんだ。忘れてた。

 学校なんかどうでもいい。もう、憎悪も恋の悲しみも敗れた夢もふっとんだ。いま、演奏しているのが楽しい。

 二人の間にあるのは音楽の楽しさだけです。

 先生もまた地獄に陥っていました。

 音楽を愛する若者を音楽の名のもとに潰していたのです。

 その地獄から先生は最後に主人公によって救われます。

 いや、救ったのは主人公ではなく、音楽でした。

 最後には二人はもはや勝ち負けなんかどうでもよくなっていました。

 だからエンディングはもはや「ロッキー」一作目のそれ。

 フィニッシュの瞬間、僕は思わずガッツポーズをした。

 他の席からは「イエス(やった!みたいな意味)!」という声も上がりました。

 まったくプロレスの3カウントの瞬間でしたよ。

 この後味のために、今までの苦しみがあったのです。

まあ、こんなに長く書いたのは、『ロッキー』観て感動した後、ボクシングに詳しい人から「あれはボクシングとしておかしいよ」と言われたような気分だったんですよ。