必ず映画『鈴木先生』を鑑賞した後にお読みください

 本日発売の週刊漫画アクションで、町山が連載していたコラムが最終回になります。
 最後なので、漫画アクション連載の漫画が原作で、双葉社が製作費を出資した映画『鈴木先生』について率直な批評を書きました。
 掲載された文は自分で短くしたものですが、以下に、短縮する前の原文を掲載します。
 必ず、映画『鈴木先生』鑑賞後にお読みください。
 ★UP後、思うところあり、補足しました。特に最後の太字の部分。

 1987年、『八月の鯨』という映画で、リンゼイ・アンダーソン監督は、主演女優リリアン・ギッシュ(当時94歳)の顔を大きく捉えたショットを撮影した後、「ギッシュさん、ありがとう。おかげで素晴らしいクロースアップが撮れました」と言った。すると共演の女優ベテイ・デイヴィス(当時79歳)はこう言った。
 「そうよ! 彼女が発明したんだもの」
 正しくは、リリアン・ギッシュがクロースアップを発明「させた」のだ。

 劇映画が生まれた20世紀初め、クロースアップというものは存在しなかった。どの映画も、それぞれのシーンは、フル(全身)ショット、ないしミディアム(腰から上くらい)ショットで撮られ、ひとつのシーンの間、カメラは固定されて動かず、カットは切り替わらなかった。つまり舞台劇を客席から見るようなものだった。
 しかし、D.W.グリフィス監督は、リリアン・ギッシュの可憐な顔を見せたくて、または、彼女の顔を見たいという観客の欲望に応えて、彼女の顔にカメラを近づけて撮った。舞台劇では不可能な、映画ならではの表現技法が生まれた。
 ★通常、肩ぐらいから上のショットをクロースアップ、胸から上のショットをミディアム・クロースアップまたはバストショットと呼ぶが、ここではどちらもアップと呼ぶことにする。
 スクリーンいっぱいに映し出された彼女の可愛らしい顔を見て、当時の観客はどれほどドキドキしただろうか。そんなに女性の顔に近付けるのは、キスする時だけだ。カメラは、劇中でリリアンと恋に落ちる相手役の目になり、観客は彼に一体化してリリアンと恋に落ち、映画スターというものが誕生した。
 マンガでのクロースアップは、特に少女マンガで多用される。ヒロインの顔がドラマを語る。目や髪、唇の表現方法、キャラの顔のフォルムやディテールが商品性になる。
 武富健治のマンガ『鈴木先生』の魅力も顔にある。感情を過剰なまでにむき出しにした先生と生徒たちの個性的な顔、顔、顔。そして小川蘇美、中村加奈、平良美祝たちの可愛らしさ。


 ところが映画『鈴木先生』を観て驚いた。
 シナリオは完璧だった。わずか100分前後に、複雑で緻密な原作の要素を余さず収めている。
 でも、撮り方(カメラ割り)がまったくダメ。
 どうして原作漫画のコマ割りを尊重したカメラ割りにしないのだろう。
 鈴木先生、小川さん、足子先生、愛くん以外にクロースアップが与えられていない。
 登場人物たちの顔がまるで見えないのだ。
 ほとんどのシーンはロングまたはフルショット、ないしミディアムショットの長回しで撮られている。これがマンガだったら、登場人物たちの全身が描かれた同じアングルのコマが連続するようなものだ。戦前の漫画「のらくろ」がそうだった。 
 平良が鈴木先生に「ありがとう」と言う場面。原作では平良ちゃんの輝くような笑顔が描かれるが、映画では横からのミディアムショットのロングテイクで撮られ、薄暗くて彼女の表情がまるで見えない。平良ちゃんの顔のアップはインサートされない。その表情が「ありがとう」にこめられた感情を語るはずなのに! 彼女を演じる女優さんが、彼女なりの解釈で平良ちゃんの内面を表現しているのだから。
 ここでカメラは、鈴木先生の目になって平良ちゃんの顔を見るべきだ。そうしていたら彼女を見る鈴木先生の気持ちも同時に表現されただろう。
 だから顔が写っているかどうか以上に、アップは、劇中で被写体を見る登場人物の視点に観客を一体化させる意味でも必要なのだ。
 顔は外部に向かって開かれた心の窓だ。しかし、映画『鈴木先生』は、その窓を見せようとしない。
 

 たとえば漫画で大コマに複数の人間が描かれていてるのと、一人の顔をコマに切り取ったのでは、まったく意味も効果も違う。
 デジタルで広角レンズで撮ってれば、フレーム内に入っている人物の顔は写り込みはする。たしかに観客が画面をよく見れば見えないことはない。だが、それは風景と同じで「ただ写っているだけ」。バラエティ番組で雛壇に並んでいる芸能人のアップが切られない状態にも似ている。
 芝居の舞台を客席から見るのと同じで、顔の表情の微妙な演技までは見えない。彼の顔に注目してくださいと観客に指示することもできない。
 でも、漫画や映画ではそれができる。アップを切れば顔だけに観客を集中させられる。キャラが自分の内面を出しているシーンでは、その顔を「見せなければ」。アップを切らなければ。
 映画やテレビや漫画は観客の視線を誘導して物語内部に引きずり込む能力を持つメディアだ。
 人は、何かをじっと見る時、実際に視野に入ってはいても、対象となるもの以外は意識から消え失せる。それを映像的にシミュレートするのがズームアップやクロースアップだ。
 その効果は、人物の顔にきちっと光をあてて、長めのレンズで背景をぼかして顔を浮き立たせればより強調される。
 逆に言うと、我々の目と意識は日常生活の中でたえずズームアップやクロースアップをしている。だから適度なアップがあるほうが生理的に自然でリアルである。たとえば主人公が誰かをじっと見たら、カメラもその誰かをアップにすると観客の生理にとって自然だ。

 
 俳優たちはアップを切られるとき、その瞬間だけは誰もがその映画の主役だ。
 これは舞台の芝居なら、スポットライトを浴びて名セリフを語る場面になる。
 舞台ではアップができないから内面を言葉で語るしかない。遠くからもわかるように全身で演じる。
 いわゆる「芝居がかった」と言われる芝居で、当然リアリティは損なわれる。
 しかし、映画なら言葉でなくても、体を動かさなくても、表情だけでも内面を語ることができる。魅せることができる。
 観客を、キャラクターの内面に招き入れることができる。リアリティを維持したまま。
 顔はドラマであり、アクションでもある。
 その機会を、映画『鈴木先生』は役者に与えようとしない。その人を画面の主役にしたショットがない。
 俳優の顔が見たいという観客の欲望に応えてくれない。
 

 主要キャラの中村加奈の顔すらまともなアップは与えられず、最後までどういう顔なのか記憶に刻まれない。鈴木先生の妻である麻美さんもそうだ。ここは彼女を愛する鈴木先生の視点で撮って欲しい。原作同様に。
 校長先生の斉木しげるにいたっては米粒くらいにしか見えない。大好きな俳優さんなのに、あまりにもったいないし、俳優さんに失礼だ。これは、斉木さんが話す時にほんの一瞬だけ彼のアップをインサートするだけで解決したと思う。
 それ以外にも、セリフがあるのにアップで撮られる機会が与えられていない俳優さんたちが大勢いるが、彼らはこの映画に出て全然顔を覚えられないだろう。表情の演技も観客に見えない。役者として何のメリットもない!
 特に生徒会選挙の演出がひどい。原作では聴衆一人一人の表情をインサートしているが、映画でのこのシーンの聴衆はただのエキストラのモブにすぎない。一人一人に演技をつけてアップを割っていくのは面倒な作業だ。時間もかかる。長回しにも手間がかかる長回しとそうでない長回しがある。難しい長回しはひとつのショットの中でカメラが移動し、露出が変化し、被写体との距離も変わり、ロングとアップが混在するうえに、アクションの段取りやセリフも長くなるので綿密な設計とリハーサルが必要だ(長回しについて詳しくは映画特電『トゥモロー・ワールド』を参照のこと)。
 しかし、この生徒会演説の場合、体育館の中で動きの少ないシーンで、ごく普通のマスターショットに近い(昔の映画ではカメラを2台同時に回して、ひとつは全景が見えるロング、もうひとつはアップなどの寄りを撮影した。ロングのほうをマスターショットと呼び、シーンのプレーンなベースになる。そこに編集でアップなどをインサートしていく)。この撮り方は怠惰だ。


 比較対象として、モンタージュ手法の元祖とされるエイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』(25年)を観てみよう。クライマックスのオデッサの階段は群衆を使った大スペクタクルだが、一人一人の顔のアップが次々とインサートされる。

貴婦人たちの笑顔、子供たちの笑顔、ロシア皇帝軍の銃撃、撃たれてのけぞる女性、逃げる傷痍軍人、物陰に隠れて恐怖に震える老人、泣き叫ぶ子供、その母親の見開かれた目、顔、顔、顔……その一つ一つが感情を語る。映画の中の一人一人が、その目を通じて、観客一人一人と感情的につながる。
 絵画にもこのような群衆を描いた作品がある。たとえばブリューゲルボッシュは大量の人々を豆粒のように描いている。しかし、実際に現物を見た人は、間近に寄って、泣いたり笑ったりしている一人一人の顔が、表情が緻密に描き込まれていることに感動するだろう。映画ではアップのインサートによって、観客の代わりに一人一人の顔に近づいてくれる。その顔が一人一人の人生を観客にまさに面と向かって語りかけてくる。それを演じる俳優たちそれぞれの物語の解釈を語る。


 映画とは、監督が演出した映像だけでなく、俳優一人一人の解釈と表現と身体が織りなすコラボレーションだ。俳優の顔の造形もまたアートの一部だ。このヒゲの軍人の顔はなかなか忘れられない。

 『戦艦ポチョムキン』の名もなき群衆、名もなき俳優たちは、その顔で、表情で、全世界の観客の記憶に刻み込まれ、映画の歴史に永遠に残った。それがもし、一人ひとりのアップのない、ロングショットだけで構成されていたら、『戦艦ポチョムキン』は映画史に残っただろうか?


 映画『鈴木先生』が登場人物の顔をしっかり撮ろうとしないのは、何らかの演出意図かもしれない。黒沢清の映画では、ロングばかりの撮り方が冷たい効果を上げる。キャラクターたちから「距離を置き」、まさに「突き放して」観察するのだ。しかし、少なくとも『鈴木先生』に限っては、それをしてはいけない。
 なぜなら原作の鈴木先生は「周りの人を背景の書き割りのように考えてはいけない」と言ったからだ。
 『鈴木先生』の原作はクロースアップの連続で、どんな脇役にも人生と人格があることを意味していた。鈴木先生は生徒一人一人の顔をしっかりと見つめる。
 この映画はそれにまったく反している。俳優の顔が見えないなら、映画である必要が無い。舞台でもいいわけだ。ちなみに、演劇やミュージカルを映画化する場合、クロースアップをしっかりインサートして「俳優の顔が見える」という映画ならではの特性を活かしたカメラ割りをするのが基本的だ。
「俳優」と書いてきたが、ドキュメンタリーやニュース映像でも同じで、クロースアップは対象の内面のリアリティを覗き込もうとする行為だ。


↑最初、上のようなことを書きましたが、映画でも、フルショットの連続で俳優のアップを挟まず、あえて内面に入ろうとしない表現もあります(上に言及した黒沢清など)。それもまた映画の表現技法のひとつで、それなりの効果があります。お詫びして訂正します。

 映画『鈴木先生』は、是非、自分の目で観て、『桐島、部活辞めるってよ』と見比べることをお勧めする。

 同じく学校という限定された舞台だけで展開する映画だが、『桐島』は数多くのキャラクターの顔を一人一人、観客に印象づけ、しかも観客の「見たい欲望」に応えて「しっかりと」撮られている。特に、そのキャラが自分の内面を表面に出すシーンでは、顔をちゃんとアップにする。それらのショット、それぞれが印象的で、観客がそれぞれのキャラクターの間近にいるような気にさせる。だから映画を観終わった後、登場人物の一人一人が(好き嫌いはあるにせよ)自分のクラスメートだったような気持ちになる。漫画『鈴木先生』もそうだ。でも、映画『鈴木先生』はそうだろうか?

「人を理解しようとするなら、相手の目をしっかりと見ろ」と言われる。
 誰かが何かを訴えている時、鈴木先生はその人の目をしっかり見る。原作も彼の視点で相手の顔を描く。
 映画『鈴木先生』のカメラは、その目を見ようとしない。

おまけ「映画史上最も美しいクロースアップ105」