「『天安門広場の虐殺』という神話の誕生」グレゴリー・クラーク

多摩大学名誉学長のグレゴリー・クラーク氏がジャパン・タイムズに寄せた原稿の一部です。
全文はこちら↓
http://gregoryclark.net/jt/page42/page42.html

 :“広場で200人死んだという者がいるかと思えば、2000人も死んだと主張する者もいる。また立ち去ろうとしていた学生を戦車が轢いたという話もある。でも私は正直言って、これらの話のどれ一つとして目撃していない。そして翌朝の6時半まで私は広場に居た。”
 たしかに、その夜、北京の他の場所ではいろいろとひどいことが起こっている。当時の政権は、この占拠で被害を受け迷惑を蒙っていたにもかかわらず、民主化を求めるデモ学生たちがこの歴史ある天安門広場を占拠するのを、ほぼ3週間放置してきた。訒小平政権の高官たちが2度にわたって学生たちと妥協点を探る交渉を試みたが、成功しなかった。広場を開放するために非武装の軍隊が派遣されたが、怒りをあらわにした北京市民らの群衆から反撃され押し返された。
 最終的に武装軍隊が送り込まれた時、やはり怒りに燃えた群集が待ち受けていたが、軍隊は今度は引かず前進を続けた。群衆によってバスや軍隊輸送車数十台が放火され、なかには隊員が閉じ込められたままの車輌もあった。この後のパニック状態の攻防戦の中で数百人、ひょっとすると数千人の市民や学生の死者が出た可能性さえある。とはいえこれは騒乱であり、計画的な虐殺ではなかった。またこれは天安門広場で起こったことではない。だからなぜ、すべての報道がこれほどまで“虐殺”として広まったのか。