島田裕巳著『映画は父を殺すためにある/通過儀礼という見方』文庫解

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

僕が師と仰ぐ先生方の一人、島田裕巳先生の映画評論集「映画は父を殺すためにある/通過儀礼という見方」が文庫化され、今週の水曜日に発売されます。
子供が大人になるための通過儀礼を描くことが、アメリカ映画のスタンダードであることと、日本映画はそうでないことを、比較していく評論集です。
僕は、巻末の解説を書かせていただきました。

島田裕巳先生に初めてお会いしたのは、1989 年。当時、27 歳の僕は、パンクとニューウェーブのカルチャー雑誌だった「宝島」の編集部から、大人向けのムック「別冊宝島」に異動になったところだった。
 僕は、『映画の見方が変わる本』というムックを編集し、当時、放送大学助教授をされていた島田裕巳先生に原稿を依頼した。そのとき、先生から「通過儀礼」についてお話をうかがい、目からウロコが落ちる思いをした。
 通過儀礼(イニシエーション)を最初に学術的に考察したのは、本文中にもあるように、オランダの民族学者ヴァン・ジュネッブで、彼は世界各地の成人式や結婚式を研究して、共通する様式を見出した。それが通過儀礼、つまり、親の元に安全に暮らしていた子供を、親から引き剥がし、何らかの試練を与え、義務と責任を負う大人として生まれ変わらせる儀式だった。
 通過儀礼そのものを描いた映画には、たとえば『美しき冒険旅行』(71年)がある。高校生くらいの娘と小学生の息子を連れた父親が自動車で、オーストラリアの荒野のど真ん中に出て、そこでいきなり拳銃自殺をする。取り残された姉と弟は、偶然、オーストラリアの先原住民アボリジニの少年と出会う。彼はウォークアバウトという通過儀礼の最中だった。オーストラリアの過酷な原野を一人で放浪し、生きて戻ってきた者が大人として村に迎えられるのだ。
 ウォークアバウトは原始的な部族の成人式だが、現代の欧米でもイニシエーションは続いている。『アニマル・ハウス』(78年)や『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)では、アメリカの大学のフラタニティ友愛会)の入会儀式が描かれる。新入生たちは裸にされたり、尻を叩かれたり、雪の降る屋外に何時間も立たされたり、まったく無意味なイジメを受け、恥をかかされる。これは日本の大学のサークルやクラブでも同じで、空気イスやら一気飲みを強制され、宴会で恥ずかしい芸を強制される。そこにの意味はない。単なる儀式だから、ただ耐えればいいのだ。
 痛みや屈辱は「象徴的な死」の体験だ。そこで、それまでに自分がいったん死んで、新しいグループの一員として生まれ変わるための。ヤクザや秘密結社の入会式では、もっと具体的に、指先をナイフで切って血を流したりして「象徴的な死」を演じる。
フルメタル・ジャケット』(87年)ではベトナム戦争時の海兵隊の新兵訓練が描かれる。「お前らはクズだ!お前のオヤジがシーツに漏らすはずだった精子がたまたまガキになっただけのクズだ!」教官は新兵たちに考えられる限りの罵倒を浴びせる。プライドを完全に打ち砕き、精神的に殺す。「人を殺してはいけない」とされてきた日常を白紙にし、殺すことが仕事である戦場に適応させるための改造だ。それなしに、平和な日常から若者をいきなり戦場に送りこんだらどうなるか。敵を殺せないだけでなく、精神は崩壊してしまうだろう。
 こうしたイニシエーションを最も自覚的に行ってきたのは、宗教だ。どの宗教も入信の儀式が最も重要だ。特に新興宗教において、イニシエーションはより強烈になる。信者として完璧に生まれ変わらせるために、相手の内面にまで入り込んで、それまでの彼(彼女)を完璧に殺す。それはしばしば「洗脳」と呼ばれる。
 それを教え子たちに実体験させようとしていた教授がいた。東大で宗教学を教えていた柳川啓一教授は、ゼミ生に、実際に宗教に入信することを勧めていた。島田先生も柳川啓一教授のゼミ生だった。ほかには、中沢新一植島啓司四方田犬彦、それに映画監督の中原俊などがいる。中原監督が『櫻の園』でイニシエーションを描いたのは偶然ではないのだ。
 僕は四方田先生の担当でもあったので、彼が柳川ゼミ生としてGLAという宗教団体に入った話も聞かされた。島田先生はヤマギシズムに入った。その体験は先生自身がいくつかの著作で書いている通りだ。
 島田先生にインスパイアされた僕は、90年、別冊宝島で『いまどきの神サマ』を企画した。当時ブームだった新興宗教やオカルトについてのルポ集だが、テーマは通過儀礼だった。どんな社会にも成人になるための通過儀礼がある。かつては部族や村の共同体や職能集団の徒弟制度などがそれぞれに子供を大人にするためのイニシエーションを行っていた。近代国家では、徴兵制度がそれを代行した。また、戦後の日本では企業や職場が、子供を大人へと鍛え上げてきた。しかし、1990年の豊かすぎる日本で、そんな試練は消滅した。若者たちはイニシエーションを経ずに子供のまま世間に放り出される。不安になった彼らは、自らイニシエーションを求め、宗教や自己改造セミナーに身を投じるようになったのではないか?
 その『いまどきの神サマ』に、様々な新興宗教への潜入体験をしてきた大学生によるオウム真理教入信体験記を掲載し、島田先生に論評してもらった。島田先生は「オウム真理教はディズニーランドである」と題して、オウムはオタクな若者たちの宗教ごっこだと論じた。その指摘自体は正しかったが、オタクだから安全というわけではなかった。彼らの妄想は地下鉄サリン事件を起こすほど先鋭化していた。赤軍派の繰り返しだった。
 その後、僕は宝島社の子会社に左遷された。サリン事件の犯人がオウムだと判明し、オウム真理教に好意的な発言をしていたとされた島田先生は日本女子大の教授を辞めるはめになった。元はといえば『いまどきの神サマ』が発端なので、僕にも大きな責任があるのだが、だからこそ気まずくて島田先生に連絡をすることができなかった。そのまま僕は会社を辞め、アメリカに移り住んだ。
 アメリカ文化のなかに生き、新旧のアメリカ映画を浴びるように観た。そのうちに、島田先生が教えてくれたイニシエーションこそがアメリカ映画の根幹にあることが明確になってきた。
 たとえば、アメリカ人にとって国民的な映画と言われるフランク・キャプラ監督の『スミス都へ行く』(39年)。田舎の純真な青年スミスが、急死したひょんなことから上院議員の後任として代理として首都ワシントンの議会に行くことになる。そこで政治家たちの腐敗した現実を見ることで、スミスが無邪気に信じていたアメリカの民主主義への幻想は打ち砕かれる。しかし彼は失望のどん底から立ち上がり、腐敗議員相手に命がけの戦いを挑み、勝利する。『スミス都へ行く』は、オイディプス王などの伝統的な神話の構造をなぞっている。すなわち、故郷に守られてきた子供が、そこから厳しい外の世界に放り出され、いったんは敗北し、「象徴的な死」を体験した後、復活して勝利する、というストーリーだ。
 また、『ランボー』(82年)の原作者デイヴィッド・マレルは、ジョーセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』を読んで、キャンベルが世界中の神話から抽出したに共通する英雄物語の基本構造を拝借したと言っている。ベトナム帰還兵ランボーは田舎町の警察に虐待され、傷つき、廃坑の暗闇に追い込まれる。そこから復活したランボーは鬼神のごと如く大暴れしてたったひとりで田舎町を壊滅させる。その展開は、キリストの受難、復活、再臨、最後の審判をなぞっている。
 同時にアメリカ映画は父殺しの物語でもある。『スミス都へ行く』の敵役である腐敗した老獪な政治家、『ランボー』の高圧的な警察署長は、父親の象徴だ。父殺しを描いた最も有名なアメリカ映画は、本文中にあるように『スター・ウォーズ』だろう。作者ジョージ・ルーカスは、トールキンが神話を現代に創造した『指輪物語』のファンであり、自分も『スター・ウォーズ』という神話を創造するにあたり、キャンベルの『千の顔を持つ英雄』を参考にしたという。
 ルーカスが『スター・ウォーズ』を父殺しの物語にしたのは、個人的な理由も大きかった。ルーカスの父は厳格でたくましい男で、病弱なルーカスをいつも「弱虫め」と詰り、自分が経営する文房具店を継ぐようルーカスに強制した。ルーカスは父に逆らって映画の道へと進んだ。ルークが父ダース・ヴェイダーの誘いを断る葛藤はルーカスの個人的体験だったのだ。
 父との相克をアメリカ映画が繰り返し描く理由には、大きく二つあると考えられる。ひとつはユダヤキリスト教の伝統。本文中でも『エデンの東』と旧約聖書の関係が論じられているように、聖書は「神」を父、キリストをその息子、というイメージで描いており、その父子関係が世界理解の基本になっている。もうひとつはアメリカという国独自の歴史。イギリスに対して反抗して独立したアメリカという国は、常に自分を父と戦った息子としてイメージせざるを得なかったのだ。
 ただ、アメリカと違う歴史と文化を持つ日本では、物語も当然違ってくる。アメリカ映画が描く厳しい成長物語や激しい父と子の相克には違和感を持つ日本人も多いだろう。だから、本文で「寅さん」シリーズに日本人独特の成長物語を見出す章は興味深い。僕自身も寅さんのように、通過儀礼に時間がかかった。
 僕は、映画狂だった父親にテレビで西部劇やギャング映画をやたらと見せられたことで映画少年になった。しかし、僕がその父は中学生の頃、父は家を出て行き、以後音沙汰がなくなった。目標として乗り越えるべき父親を持たず、子供のままダラダラと30歳を超えてしまった。出版社で窓際にされ、左遷され、退職してアメリカに渡ったものの仕事はなかった。日本に戻って昔の仕事先に頭を下げて回ったが、仕事はもらえず、会ってさえくれないこともあった。辛かった。本当に死んだような気がした。悪いことは重なる。母が事業で失敗し、莫大な借金を抱えた。まさにどん底だった。
 しかし、そのなかで最後のチャンスを賭けて、初めての映画評論集『映画の見方がわかる本』を書いたかいた。内容は1970年前後をアメリカの通過儀礼として捉えたハリウッド映画論。50年代までのアメリカはアメリカン・ドリームという幻想を信じた少年期だったが、60年代、ケネディ暗殺、ベトナム戦争、人種差別が噴出し、体制に幻滅した若者たちは、学生運動やドラッグやフリーセックスや東洋思想で既成の価値観に反抗した。思春期の若者が父親に反発するように。アメリカ映画もその時代を映して、『イージー★ライダー』や『卒業』など反抗する若者の映画が全盛を極めた(その後、アメリカ映画は、本文中に取り上げられた『フィールド・オブ・ドリームズ』で描かれたように父親と和解する)。27歳の頃、島田先生から通過儀礼というキーワードを授けられなければ、この本は書けなかった。
 この本で、僕は映画評論家として認知され、なんとか食っていけるようになった。そして、30年ぶりに父から連絡があった。末期がんの病床で、生まれて初めて父の人生すべてを聞いた。別れ際の父の言葉は「モニュメント・バレーに行きたかった。西部劇で出てくるあの場所だ」。父からアメリカ映画への憧れを植え付けられなければ、今日の僕はいなかった。ひと月後、父は一度もアメリカの地を踏むことなく他界した。遺灰を拾いながら、50歳を目前にして、やっと大人になれた気がした。
 2011年、震災後の4月、石原都知事の花見自粛発言に反発した僕はツイィッターで都庁前での花見を呼びかけた。集まった300人の有志のなかに島田先生を見つけた。16年ぶりの再会だった。その間、地獄も見たであろう先生はただ笑って握手してくれた。本当にありがとうございます。