町山智浩「ゼロ・グラビティ」論

ゼロ・グラビティ』論をパンフレットに書きました。読んでね!

死と再生の物語 『ゼロ・グラビティ』論 町山智浩

 主人公が突如、たった一人で極限状態に放り込まれ、生き延びるために闘う。そんなサバイバル映画がアメリカで流行っている。
『ザ・グレイ』、『ライフ・オブ・パイ』、『キャプテン・フィリップス』、『オール・イズ・ロスト』、『ローン・サバイバー』、『12イヤーズ・ア・スレイヴ』……、そして『ゼロ・グラビティ』は2013年秋最大のヒットになった。
 人々はなぜ、サバイバル映画を求めるのか? その答えは『ゼロ・グラビティ』の中にある。
 まず、オープニングから13分間、カットなしの超ロングテイクが驚異的だ。前作『トゥモロー・ワールド』でも長回しを多用したアルフォンソ・キュアロン監督は「本当は映画全体でワンカットにしたかった」とインタビューで答えている。
それでもワンカット映画に限りなく近づけるため、『ゼロ・グラビティ』はカットの間に時間をジャンプしない。90分の出来事を90分で描く、『真昼の決闘』『12人の怒れる男』などと同じリアルタイム映画なのだ。
 その目的は観客に映画を「体験」させるため。カットが切り替わると、観客は自分が映画を観ていることを自覚してしまう。長いテイクで、自分が観客であることを忘れさせ、その現場にいる感覚にさせるのだ。
主人公ライアン(サンドラ・ブロック)が宇宙の彼方に回転しながら飛んでいくのを観て、筆者は自分が中学生の頃に観た『2001年宇宙の旅』(67年)を思い出した。木星に向かう探査船ディスカバリー号の飛行士プールが、船外作業中に狂ったコンピュータHALが操る小型作業ポッドに衝突されて、クルクルと回転しながら飛んでいく。テアトル東京のシネラマの巨大スクリーンで観たので、視界はすべて宇宙の星の底無しの海。無重力では何かにぶつからない限り永遠に飛んでいく。これと同じ状況が『ゼロ・グラビティ』にあるが、なんとカメラがライアンのヘルメットの内側に入り、彼女の視点になる。果てしなく回転し続ける映像。誰か止めてくれ! 
ゼロ・グラビティ』は『2001年宇宙の旅』以来、ひさびさに無重力をリアルに描いた。ハリウッド製SF映画はなぜか無重力を気にしない。『スター・ウォーズ』(77年)のデススターはなぜか上下に階層があるし、『エイリアン』(79年)では輸送船ノストロモ号の船内でエイリアンの強酸血液が階下に滴り落ちる。『エイリアン2』でも大気圏外の戦艦スラコでクイーン・エイリアンが「落ちる」描写がある。しかし『ゼロ・グラビティ』は無重力そのものがテーマだ。当然『2001年宇宙の旅』へのオマージュは各所に見うけられる。
 ライアンがロシアの宇宙ステーションに入る場面は、『2001年〜』でボーマン船長がディスカバリー号に入るシーンを明らかに意識している。プールを救うために慌ててポッドに乗り込んだボーマンは宇宙服のヘルメットを忘れてしまった。しかしHALは船のエアロックを閉めてしまう。ボーマンはヘルメット無しで息を止めて、ポッドのドアの非常用爆破装置を利用してエアロックに飛び込む。窒息する前にエアロックに空気を満たせるか。文字通り息詰まる迫力で、観客は呼吸困難になる。
 これを『ゼロ・グラビティ』は裏返した。空気のある船内に入ったライアンだが、宇宙服の空気は尽きているので、宇宙服の中で窒息しそうになる! 
 ライアンは無重力で浮かびながら宇宙服を脱ぐ。これは『バーバレラ』(68年)のタイトルバックでジェーン・フォンダがやった「宇宙ストリップ」を思い出させる。宇宙服を脱いだライアンはタンクトップとパンツ姿になる。実際はオムツをしているはずなので間違っていると批判されたが、これは『エイリアン』でシガニー・ウィーヴァーが最後に見せる下着姿へのオマージュだろう。
 それよりも重要なのは、その後、ライアンが体を丸めて羊水の中の胎児のように浮かぶシーンだ。これは『2001年宇宙の旅』のラストで宇宙に浮かぶ胎児とつながってくる。『ゼロ・グラビティ』は「死」と「誕生」のイメージに満ちている。
 乗り込んだソ連のポッドが燃料切れだと知って、ライアンはあきらめて酸素をカットして死を待つ。すると死んだはずのマット(ジョージ・クルーニー)が乗り込み、大気圏突入用の燃料を使えと教える。ライアンは死の淵でマットに再会したように見えるが、医学的には、マットは酸欠でライアンの脳が見た幻覚であり、彼女自身の無意識に潜む生存本能そのものである。
 娘を失ったことで生きる目的を失っていたライアンは極限状況と闘うこと、つまり生きようとすることそのもので生きる意志を蘇らせる。つまりもう一度生まれるのだ。
 神話学者ジョーセフ・キャンベルは世界各地の民話や神話の類型を体系化した『英雄は千の顔を持つ』のなかで、世界中の英雄物語にはある一つのパターンがあると論じている。最初に主人公は安全な日常から無理やり引き離され、過酷な状況に放り込まれる。そこで主人公は一度死ぬが、脱皮するようにして英雄として生まれ変わる。キリストや仏陀が死ぬほどの試練の果てに人間を越えた存在になったように。それは英雄だけでなく、すべての人間の成長を象徴している。
 我々が今でも、サバイバルや監獄の物語を求める理由はそこにある。我々は宇宙飛行士でもないし、囚人でもない。真空の宇宙や監獄は、厳しい現実世界の象徴にすぎない。そこで時に人は死ぬほど打ちのめされ、生きる意味を見失う。そうして死と対峙することで、人は自分の心の奥底を見つめ、もう一度生まれ直すチャンスを掴む。
2001年宇宙の旅』の探査船ディスカバリー号は巨大な精子の形をしている。それに乗ったボーマン船長は、高度な知性体が作ったモノリスというマシンによってタイム・ワープして、地球の歴史を見せられる。何もない大地に生命の源である海が生まれるまでを。そしてボーマンは急激に年老いていったん死に、新人類の赤ん坊として再誕する。それは人類全体の進化を意味している。
ゼロ・グラビティ』のライアンは大気圏に突入し、着水する。それは『猿の惑星』(68年)の一作目にチャールトン・ヘストンが乗る宇宙船が着水した湖で撮影された。それは61年生まれのキュアロンらしいオマージュだが、彼はその水は「羊水、または原始スープ」を象徴していると言っている。原始スープとは40億年前、地球の海に有機物が溶け込んだ状態をいう。そこから生命が生まれたのだ。ライアンはその海を泳ぎ、岸辺を這い、ゆっくりと立ち上がる。微生物が魚に進化し、魚が両生類に進化して陸に上がり、爬虫類、哺乳類と進んで、大地に立ち上がった過程をなぞっている。
 ライアンが地球を踏みしめた時、GRAVITY(重力)とタイトルが出る。彼女と一体化して果てしない宇宙で孤独を感じてきた我々も、その重力をずしりと感じる。この地球に生まれた奇跡の重さを。


「孤独とは、港からはぐれて大海を漂流することではなく、自分自身を、本当の自己を探す機会なのです。私たちが何者であり、この美しい地球にいられるわずかな時間に、私たちがどこへ向かっているのかを知るための」アン・シャノン・モンロー