「ヤング@ハート」のパンフに原稿書きました

現在、シネカノン有楽町、渋谷シネ・アミューズなどで公開中の映画『ヤング@ハート』のパンフレットに原稿を書いてますので、是非、読んでやってください。

ヤング@ハート』を観ていて、今から20年ほど昔、みうらじゅんさんとカラオケ・バーに行ったことを思い出した。
 生バンドがリクエストで演奏してくれる店だった。いいスーツを着た中年のビジネスマンがジョン・レノン・バージョンの「スタンド・バイ・ミー」を歌った。英語の発音が良くて歌も上手かった。ところが泥酔したみうらさんが「お前、ロックじゃねーよ!」と叫んでステージ上の彼につかみかかろうとしたのだ。僕らに羽交い絞めにされたまま、みうらさんは叫び続けていた。「ロックじゃねーよ!」と。
 何がロックで、何がロックじゃないのだろうか。
ヤング@ハート』でお年寄りたちが歌うロックは、ある意味「やらされている」にもかかわらず、なぜ、あんなにもロック・スピリットに溢れているのだろう。スタジアムをいっぱいにするメジャーなバンドよりもはるかにロックを感じるのは、なぜだろう。
 アメリカに住むようになってからも、アメリカ人たちと飲み屋でよくそんな話をする。
「いくらノイジーなギター弾いてもジャーニーはロックじゃない」
「スローなバラードでもジョン・レノンはいつもロックだな」
 そのうちに音楽以外の話になっていく。
「いちばんロックじゃない服装は?」
「ピンクのポロシャツに紺のスラックス」
バットマンはロックだけど、スーパーマンはロックじゃない」
「R2−D2はロックだけど、C3−POはロックじゃない」
「ステーキはロックだけど、サラダはロックじゃない」
「そうかなー」
「絶対にロックじゃないのは……名刺だな」
「言えてる! 名刺交換ってロックじゃないよな!」
 つまり、ロックとは単に音楽のジャンルじゃない「何か」なんだ。ロックンロールのキング、ことエルヴィス・プレスリーはかつてこう言ったそうだ。
「僕がやっているのは音楽じゃない。ロックンロールだ」
 これは「ロックンロールは音楽の部類に入らない低級なものだ」という自己卑下ではなくて、「自分がやっているのは音楽を超えた何かなのだ」という意味だと思いたい。
  その「何か」とはいったい何だろう。
  ロック雑誌の記者を主人公にした映画『あの頃、ペニーレインと』には、こんなセリフがある。
「ロックンロールとは何か、説明するのは難しい。誰もうまく説明できてないと思う。……ロックンロールとは生き方だ。考え方なんだ」
 ロックは生き方−−この考え方は僕のような、ロックが死ぬほど好きなのに音楽的才能がこれっぽちもない者を勇気づけてくれる。『あの頃、ペニーレインと』は監督のキャメロン・クロウが若い頃、ロック雑誌『ローリングストーン』の記者だった体験を元にした映画だ。実は僕も大学を出た後、ロック雑誌の編集者をしていた。『ペニーレイン』の主人公は先輩のロック評論家から「ロック・ミュージシャンはカッコいいが、それについて書くだけの僕らはカッコ悪いんだ。それを忘れるな」と釘を刺される。
 わかってるさ。誰よりもロックに憧れるから、誰よりもそんなことは知っている。でも、ロックが音楽ではなくて、生き方なら、僕にもできるはずだ。文章を書くことでも、野菜を作ることでも、学校の先生をすることでもロックできるはずだ。みうらさんに「ロックじゃない!」と言われたビジネスマンでも自分の職場でロックできるはずだ。
 じゃあ、ロックとはどんな生き方で、どんな考え方なんだ?
 映画『スクール・オブ・ロック』で小学校の臨時教員ジャック・ブラックが小学生にロックの精神を教えようとして、こう言う。
「ロックとはStick it to the Manなんだ」
 これは日本語にしにくい。Stick it to とは「突っ張る」こと。逆らい、反抗し、楯突くこと。The Manとは「権力者」を意味するが、具体的な誰かではなく支配的な体制や権威を象徴している。もちろん、そんなことを小学生に言ってもわかりゃしないからジャック・ブラックは苦労する。
 また、アメリカのテレビ討論会で「ヒップホップはロックか否か」が論議された時、ラッパーのアイスTはこのように答えていた。
「ヒップホップにもロックなものとそうでないものがある。個人的にはロックとは不満や苛立ち、怒りの音楽だと思う。3コードのロックンロールでも悩みのないラブソングなら、それはポップスだ」
 ロックンロールの原点は打ちひしがれた黒人たちの悲しみを歌ったブルースだ。それが50年代に若者たちの欲求不満を吸い取ってロックとして爆発した。「彼女が欲しい」「車が欲しい」「大人はわかってくれない」そんな思春期の心の叫びだったロックは、60年代に人種差別やベトナム戦争に対する社会的怒りへと成長した。ロックで世の中が変わる。そう信じられたロック黄金時代だ。はるか昔のことだが。
 では、『ヤング@ハート』のお年寄りたちの心の叫びとは何だろう。老いること、死ぬことだろう。若さと命が永遠でないこと。人生は二度ないこと。それをお年寄りたちは静かに受け入れているかのように見える。しかし、そんな悟りが本当に可能だろうか? 
 かの一休禅師は、正月に浮かれる町に杖の上に髑髏を掲げて現れて「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と歌い、老いと死は避けられないのだと人々を戒めた。ところが、そんな一休でも最期の言葉は「死にとうない」だったのだ。飲酒、肉食、女犯と浮世の快楽を味わい、あらゆる権威に楯突いて自由奔放に生きて88歳で大往生したくせに、彼は最後まで生きることをあきらめなかった。
 ヤング@ハートのお年寄りたちも、絶対に勝てない老いや死という運命に抗って「フォーエバー・ヤング」「ステイン・アライブ」と歌う。それは思春期の反抗や社会への怒りなど比べ物にならないほどラジカルでパンクだ。一休さんも現代に生きていたらきっとロックを歌っていただろう。
 それでも現実は非情だ。ヤング@ハートの老戦士たちは一人、また一人と倒れていく。病院でロックを歌い続けることで死を蹴散らしたボブさんもついに力尽きた。戦友ボブさんを失ったフレッドさんは、彼とデュエットするはずだったコールド・プレイの『フィックス・ユー』をソロで歌う。その歌詞はもともとラブソングだが、フレッドさんが歌えば、ボブさんら一足先に旅立った仲間たちへの鎮魂歌として天に響く。

  一生懸命頑張ったけど、力及ばなかった
  欲しいものをやっと手に入れたのに、必要なかった
  死ぬほど疲れているのに、眠れない
  何をやっても裏目に出る

  そして涙が君の頬を流れる
  かけがえのないものを失ってしまった
  誰かを愛しても報われなかった
  これ以上の不幸があるだろうか?

  でも、光が君に帰り道を示すだろう
  そして君の骨に命を吹き込むだろう
  僕が君を直してあげるよ

 フレッドさんは幼少期に大恐慌を経験し、二十歳になる頃は兵隊としてイタリアでナチと、フィリピンで日本軍と戦い、敗戦後の日本に進駐した。いくつもの死を見てきただろう。数え切れない友人を失っただろう。志半ばで倒れた人たちも多いだろう。彼らすべてへの思いが、その深く暖かい歌声に込められているようだ。シュッ、シュッという酸素補給機の音までがドラムのブラシ・ストロークのように聴こえて、この「フィクス・ユー」はオリジナルをはるかに超えた、まさに奇跡だ。
 僕ももうすぐ老人になる。その時は何を歌おうか。ああ、マキシマム・ザ・ホルモンの『ぶっ生き返す』がいいな。葬式の時もみんなに歌って欲しいな。

  脳味噌、常に震わせて
  荒々と運命に背く
  もういっそ、俺に生まれたなら
  君をぶっ生き返す