『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』

「どうしてこんなドツボにはまっちまったんだ?」
 主人公リーガン・トムソンが白いブリーフ一丁で座禅を組んで宙に浮いている。……あ、宙に浮いてる理由は後で。
 場所はどこかの楽屋。トムソンはかつてハリウッド超大作『バードマン』の主演スターだったが、その後は鳴かず飛ばず。妻子にも逃げられた。それが60歳をすぎた今、自ら製作・演出・主演するブロードウェイの舞台劇に再起を賭けている。
トムソンを演じるは、かつてアメコミのスーパーヒーロー、バードマンを映画で演じたスターだったが、その後、鳴かず飛ばずのまま60歳を越えた。演じるのはマイケル・キートン。彼自身も、ティム・バートン監督の『バットマン』(89年)で主人公ブルース・ウェインを演じた。
『バードマン』の監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。彼の映画はいつも暗い。『アモーレス・ペロス』では都市の最下層で貧しさにあえぐ若者が金のために愛犬を闘犬に出す。『21グラム』では交通事故で娘と夫を失った未亡人と、彼女の夫の心臓を移植されて生き延びた大学教授と、その夫をひき逃げした前科者の三つ巴の愛憎。『バベル』ではモロッコ旅行中の夫婦が子どものいたずらで銃撃され、妻は砂漠の真ん中で死に近づいていく。『BIUTIFULビューティフル』では、バルセロナで貧しい移民を助けて暮らす男が末期ガンを宣告される。重くて暗くて真面目で救いようのない話ばかりだ。ところが、この『バードマン』はイニャリトゥ初のコメディなのだ。
公演までの数日間はドタバタの連続。共演者のエドワード・ノートンはナルシストで自分が目立つことしか考えてない。ベッド・シーンで相手役のナオミ・ワッツと本番に及ぼうとする。しかもナルシストで楽屋を全裸でウロウロする。その股間が見えそうになると何かの障害物で見えないという『オースティン・パワーズ』一作目でおなじみのギャグだが、ワンシーン・ワンカット長回しでカメラがスティディカムで常に動き回っているので、この股間隠しは徹底した計算とリハーサルで実現している。バカバカしいことほど真剣にやるのギャグの神髄。これでアカデミー撮影賞だ。
 また、ナオミ・ワッツが売れない女優役というのはもうそれだけでギャグ。この人はニコル・キッドマンと同期なのに、自分だけ売れなくて、「マルホランド・ドライブ」の売れない女優役でやっと売れたけど、その後も『キングコング』などで売れない女優役ばかり。しかも、この『バードマン』では意味なく突然のレズ・シーンで、『マルホランド・ドライブ』のパロディまでやっている。
 そんなバカな役者たちとトムソンは取っ組み合いしたり、パンツ一丁でタイムズスクウェアの人混みを駆け抜けたり……。
 この舞台はダメだ、と落ち込むトムソンを励ますのがバードマンだ。
「お前はヒーローだ。お前は飛べるんだ」
 トムソンは宙を飛び、手に触れずに物を動かす。俺は無敵だ。ただし心の中だけで。バードマンも彼にしか見えない、オルター・エゴ(もう一人の自分だ)。
「何かを作っている時は、『俺は天才だ! 無敵だ!』という自信と、『俺には才能ない! ダメだ!』という自己不信が交互に襲ってくるものさ。それを表現したんだ」イニャリトゥは言う。
 舞台の演目は、レイモンド・カーヴァーの短編『愛について語るときに我々の語ること』をトムソン自ら戯曲化したもの。カーヴァーは日本では村上春樹によって紹介された純文学作家で、その作風はよくミニマリズムと評される。日常のほんの些細な出来事や心の微妙な揺れを、決してドラマチックに盛り上げることなくリアルに描いていく。
この『愛について〜』も、二組の夫婦がキッチンテーブルでジンを飲みながら、二つの愛の形について会話しているだけ。愛する女性を虐待することが自分の愛の証だと思っていたDV男エドと、交通事故で瀕死の重傷を負った老夫婦。夫は全身をギプスで固められて首が動かせず、横に寝ているはずの愛妻の姿が見えないことを嘆く。それで小説は何事もなく終わる。クライマックスやオチはない。
「カーヴァーを舞台劇にするなんて芝居について無知な者の選択だ」イニャリトゥ監督は説明している。「バカげてるよ」
 トムソンにとって、役者を目指したきっかけはカーヴァーだった。高校の演劇部の公演をたまたまカーヴァーが観て、トムソンに「誠実な演技だった」と書いた紙ナプキンをくれたからだ。トムソンはそれを50年近く経った今でも持ち歩いている。紙ナプキン? バーで酒を頼んだ時についてくるやつだ。カーヴァーは父親譲りのアル中だった。
『バードマン』にも、イニャリトゥが追求してきたテーマが共通している。父と子の葛藤だ。『アモーレス・ペロス』ではホームレスの殺し屋が生き別れた娘を密かに見守る。『バベル』では母を亡くした聾唖の娘(菊地凛子)と父(役所広司)がコミュニケーションできない。『BIUTIFULビューティフル』で末期ガンを宣告された主人公は二人の子どもを抱えて煩悶する。
 トムソンには別れた妻との間に一人娘サム(エマ・ストーン)がいるが、麻薬に溺れてリハビリ中。トムソンは責任を感じ、娘との絆を取り戻そうとするが、厳しく断罪される。
「パパがこの芝居をやるのは、世間にとって重要な存在になりたいからでしょ。何様のつもり? ブログを嫌って、ツイッターをバカにして、フェイスブックも持ってない。それじゃ存在しないも同じよ。死ぬときに私たちに覚えてもらいたいんでしょ。でもね、あんたなんかどうでもいいわ」
 娘にとってトムソンはスーパー・ヒーローどころか、存在すらしない!
 トムソンは舞台でDV男エドを演じ、自分を拒絶した女性が他の男とベッドにいる現場に乗り込み、愛を求めて叫ぶ。それは娘に拒絶されたトムソンの叫びでもある。
「俺にだってなりたいものがあった。俺のような人間にはなりたくなかった。君はもう……俺を愛してないのか? 愛することもないのか……。なら、俺は存在しないも同じだ。どうもいいんだ」
『バードマン』では、このセリフがリハーサル、プレビュー、本番の3回繰り返される。『愛について〜』にはないセリフだが、実はカーヴァーが死の直前に書いた詩「最後の断章」が元になっている。

 そして、君は得られたのか?
 この人生で求めたものを
 私は手に入れたよ
 君は何が欲しかった?
 愛された者と呼ばれること
 愛されたと感じること
 この地上に生きて

 この詩は妻テス・ギャラガーによってカーヴァーの墓に刻まれた。カーヴァーは「愛された者」になれた。トムソンは……。

★以下、結末に触れています。






 エドの絶望はトムソンの絶望に重なり、彼は本当に自分の頭に向けて実銃をぶっ放す。
 落ちて行く隕石。
 トムソンは舞台で一度死んだ。しかし、その役と一体化した演技は絶賛される。
 いや、実際は銃弾は鼻を吹き飛ばしただけだった。バードマンという余計なプライドの鼻を。
 自分を撃つことでオルターエゴであるバードマンを殺すのは『ファイトクラブ』で主人公が自分を撃ってタイラー・ダーデンを殺すのに似ている。
 トムソンは一度死ぬことで蘇った。もう、バードマン無しでも飛べる。
 娘は空を見上げる。
 パパは本当にヒーローだったのね。
 誰だって心の翼を広げれば、きっと飛べるんだ。


『バードマン』には「無知がもたらす予期せぬ奇跡」という副題がついている。イニャリトゥは「無知だからこそ、無茶なことに挑戦できる」と言う。だから、カーヴァーの短編を絡めたスーパー・ヒーロー・コメディなんてバカげた企画がアカデミー賞を獲る奇跡だって起こるのだ。
 ただ、メグ・ライアンをネタにしたジョークは笑ったけどキツすぎるなあ。