コッポラのコーマン門下生時代について


コッポラの胡蝶の夢」のパンフに、コーマン門下生時代のフランシス・コッポラについて書きました。

 1960年代初め、ハリウッドのメジャー・スタジオは閉じられていた。
 監督やカメラマンなどスタッフの平均年齢はほとんど60歳を越えていたにもかかわらず、大卒の募集は行われず、わずかに縁故採用があるだけだった。
 いっぽう、全米各地の大学にはようやく映画学科が設立されていった。大衆の娯楽だと思われていた映画は、フランスで芸術として評価されるようになり、その影響がようやくアメリカに及んだのだ。コッポラもUCLAの映画学科で学んでいたが、何のコネもない彼にとってハリウッドに入るのは不可能に近かった。
 まず自主制作で映画を撮ってポートフォリオにしようにも、当時まだ8ミリ映画の機材はまともな映画を作れるレベルには達していなかったし、学生の自主映画を評価してくれる映画祭なども確立されていなかった。そんな状況で、とりあえず何でもいいからまず「映画監督」になりたかったコッポラが最初に作ったのは「ヌーディ・キューティ」だった。
 ヌーディ・キューティとは、ストリップ小屋でダンスの合間に上映された短編映画で、有名なストリッパーのダンスを記録したフィルムにはじまり、ヌーディスト村で裸の女性たちが体操やバレーボールをするだけの映画などを経て、だんだんとドラマが加えられていった。出てくるのは上半身のヌードだけで、パンツははいたままだし、セックスシーンなどはなかった。
 コッポラはわずかな金を集めて数十分のフィルム「ピーパー(出歯亀)」を作った。近所の家でヌード写真の撮影をしていると知った男がなんとかしてそれを覗こうとするドタバタをサイレント喜劇風に撮ったものだ。コッポラはそれをエロ系の興行師に見せたところ、買ってくれることになった。ただし短すぎたので、その業界人が既に所有している別のヌーディ・キューティと編集で一本にして、一時間を越える映画にできないかと依頼された。それは西部劇で、一人の酔っ払いが頭をぶつけたショックで、牧場の牛がみんな裸の女に見えるようになるコメディだった。コッポラはつなぎのために、2本のフィルムの主役の男同士が自分のエロ体験を話し合うシーンを撮り足した。 こうして出来上がった65分の『Tonight For Sure』は半分は他人が撮ったフィルムだったが、彼は「監督フランシス・コッポラ」とクレジットさせてくれと要求した。
「僕は監督としてデビューできるなら、なりふりかまわなかった」
 このコッポラの初監督作品は62年にストリップ小屋や場末の映画館でひっそりと公開された(『グラマー荒野を荒らす』の邦題で日本でも公開された)。
 何がなんでも映画監督になってやると気ばかり焦るコッポラは、ロジャー・コーマンがUCLAの学生バイトを募集していると知った。
 コーマンは、ドライブイン専用の映画会社アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズの腕利きプロデューサーだった。誰よりも早く、安く、儲かる映画を作ることを誇るコーマンは、全米各地に現われ始めた映画学生や映画オタクたちがハリウッドに入れずに立ち往生していることを嗅ぎつけ、彼らに実践の場を与える代わりに安くコキ使おうとしていたのだ。
 コッポラがコーマンのオフィスに電話すると、彼の秘書は「では、書類をお送りください。追って電話します」と電話を切ろうとした。「待って! 切らないで!」コッポラは叫んだ。電話料金が払えずに回線を切られる寸前だから、折り返し電話されてもつながらない。コッポラが必死で面接のアポを取った後、電話は切られた。
 コーマンがコッポラにやらせた最初の仕事は、60年にソ連が作った宇宙SF映画『嵐の惑星』をドライブイン・シアター用に改造することだった。元の映画は2時間の物語だが、コッポラはこれを二本立て用の約70分に短縮するよう命じられた。コーマンはさらに火星で二種類の怪獣が戦うシーンの撮り足しも欲しがった。
「その怪獣はオスとメスで、最後にメスがオスを食ってしまうというのはどう?」
 言われたとおりにコッポラは、友達と一緒にラテックスで宇宙怪獣を作った。女性器と男性器そっくりの怪獣を。女性器が男性器を飲み込んでしまうシーンは、とても後の巨匠が演出したものとは思えない。
  コーマンの下でコッポラは何でもやった。撮影、脚本の書き直し、編集、あらゆる雑用をこなしながら、映画製作の全工程を習得した。62年、コーマンがアイルランドで自動車レース映画『ヤング・レーサーズ』を撮る時、「録音できるか?」と尋ねられたコッポラは、録音に関する知識はゼロだったのにも関わらず「もちろんです」と答え、徹夜で専門書を読んで現場に行った。しかし、コッポラが録った音声にはカメラのモーター音が入っていて使い物にならず、新たにアフレコしなければならなかった。
『ヤング・レーサーズ』のアイルランド・ロケが予定よりも早く終わった後、コーマンはコッポラに「2万ドルやるから、このままもう一本映画を撮っていいよ」と言った。余った時間にもう一本さっさと作ってしまうのはコーマンの得意技だが、コッポラも後に『アウトサイダーズ』と『ランブル・フィッシュ』をいっぺんに撮影するというコーマン流テクニックを発揮している。
 コッポラはすぐにコーマンに思いついたイメージを話した。「一人の男が服を脱いで沼に潜っていくと……」そこまで聞いたコーマンは、服を脱ぐ男を女にすればOKと、GOサインを出した。その二日後にはコッポラは脚本を書き上げたという。それが彼の初長編『ディメンシャ13』だ。
 暗い湖にボートで漕ぎ出した一人の男が心臓発作で急死する場面で映画は始まる。その妻ルイーズはもともと遺産目当てで結婚したのだが、夫の母から好かれていないので、このままだと遺産がもらえない。そこで夫の死を隠して、アイルランドにある夫の実家ハローラン家を訪ねる。義母ハローラン夫人は大富豪の未亡人だが、ボケが始まっていて、十数年前に庭の沼で溺死した幼い末娘キャサリンが今も生きていると信じている。そこでルイーズはキャサリンの人形を持って庭の沼に潜る。人形を沼に浮かばせてキャサリンの呪いを偽装し、ハローラン夫人を乱心させるためだ。義母が禁治産者になれば遺産が取れるというわけだ。
 ところが、沼に潜ったルイーズは水の底で少女のまま眠るキャサリンを発見する。驚愕して岸に上がったルイーズを何者かが斧で惨殺する。ヒロインだと思った女性が映画の前半でいきなり死んでしまう! そう、これはヒッチコックが『サイコ』(60年)で、観客がヒロインだと思ったジェネット・リーをシャワールームでいきなり殺してしまうサプライズを模倣している。
 『ディメンシア13』は中盤以降、ハローラン家の兄弟の確執へとシフトする。ハンサムなリチャードと内向的な彫刻家ビリー。そこにコッポラ自身のハンサムな兄オーガストとの関係、または後の『ゴッドファーザー』の片鱗を見る人もいるだろう。その間も謎の斧殺人鬼は次々と人を襲い、キャサリンもあちこちに出没する。
 この横溝正史的なミステリーを解く探偵役はハローラン家の主治医だ。演じるパトリック・マギーは後にキューブリックの『時計じかけのオレンジ』で主人公アレックスに襲撃される作家役で知られる英国のバイプレイヤーである。彼は沼からキャサリンを発見して、庭に置く。リチャードの花嫁がそれに近づくと、「キャサリンに触るな!」と叫んで男が斧を振り下ろした。弟ビリーだった。実は子どもの頃、妹キャサリンを沼に突き飛ばして溺死させたのはビリーで、その罪悪感から、キャサリンの霊を守ろうとして殺人を繰り返していたのだ。
 ビリーが捕まった後、主治医は横たわるキャサリンの顔に斧を打ち込む。顔にはぽっかりと穴が開く。ビリーが作った蝋人形だったのだ。
 『ディメンシャ13』の「13」には意味がない。最初は「ディメンシャ(狂気)」と名づけようとしたが、既に同題のホラー映画があると知って、「13」を付けただけだ。コッポラは陰影の濃い白黒映像、古城や沼というゴシックホラーの舞台で、初長編とは思えない落ち着いた仕事ぶりを見せている。ただ、ドライブイン向けとしては大人しすぎて商品性が弱いと判断したコーマンは『コフィー』などの監督ジャック・ヒルに斧で庭師の首を切断するショック・シーンを追加撮影させた。これが教訓となってコッポラは『ゴッドファーザー』で徹底的なスプラッターを強行したのかもしれない。また、プロットはヒッチコックの『サイコ』と『レベッカ』の影響を受けているが、コッポラはこの後、『カンバセーション盗聴』以外にヒッチコック的サスペンスに挑戦していない。
 『ディメンシャ13』は63年、コーマン監督の『X線の眼を持つ男』と二本立てで公開され、興行的には成功するも(コーマンが興行的に失敗することは稀なのだ)、批評的にはほとんど注目されなかった。しかし、『ディメンシャ13』のアイルランド・ロケで、コッポラは美術監督の助手として参加したUCLAの学生エレノア・ニールと知り合った。彼女はコッポラの公私共に生涯のパートナーとなる。