「ななこSOS」と右翼

吾妻ひでお先生の「失踪日記」がらみで「ななこSOS」という言葉をひさしぶりに聞いて、ある人を思い出した。


昭和天皇が亡くなった頃、25歳の僕は『宝島』編集部を関川編集長から追い出された。
当時の宝島はレベッカ渡辺美里ユニコーンなどメジャー系を扱うようになり、
ムーンライダーズ泉谷しげるエレカシなど自分の好きなミュージシャンにしかインタビューしようとしない僕に困って社内FAに出したのだ。
すると別冊宝島の石井編集長が「うちでやってみるか」と預かってくれた。


そして、「まず、右翼に会いに行ってみるか?」と言われた。
昭和天皇が亡くなった今、日本の右翼の人々はどうしているのか、実際に会って回って来いと言うのだ。
宝島時代に鈴木邦男さんに会っていたので、一水会などの紹介で、いくつかの右翼団体の事務所を、ノンフィクション作家の岩上安見さんや与那原恵さんと一緒に訪れた。
なにしろノンフィクションの本を作るのは初めてだったので数え切れないほどの失敗をしてライターや右翼団体の人たちにさんざん迷惑をかけた。


なかでも一番失敗したのは、いくつかの右翼団体暴力団の関連団体と名指しで指摘してしまった記事だった。
「詫びに来い」と言われたので、事務所に謝りに行った。
日本で一番大きな暴力団のダミーと書いてしまった団体に行く時は、一人じゃ心細いので、先輩になる別冊宝島編集部の上田さんに一緒に来てもらった。
ちょうどお昼で、みんな一緒にカレーを食べていた。
 メガネをかけた、サラリーマンにしか見えない温和そうな幹部が「間違いでしたと訂正文を作ってくれればそれでいい」と、別に怒った様子もなく、言った。
「実は記事どおり、うちは○○組だ。でも警察や、東京の組との関係があるから、○○組の
看板が出せないから、右翼団体ということにしている。もちろん警察も他の組も本当のことは知っているが、こうやって本に書かれると面倒なことになる。そのへん、わかってくれるかな」
 怒鳴るでもないし、凄むでも威張るでもない。ソフトな話し方なので、つい僕らもリラックスして、なごやかに話し合いは進んだ。
 帰り際、その幹部は「ご苦労様だったね」と言って立ち上がり、僕らに見えなかった角度の顔の側面を見せた。
 頭のてっぺんから眉、目、頬までグッパリと刃物で割られた傷があった。
 裂けた瞼から義眼が飛び出していた。
 どう見ても日本刀と戦って受けた傷なのだ。
 僕は死ぬほどビビッて、ひざガクガク状態で会社に帰った。
 ちなみに一緒に行った上田さんは、今は橘玲というペンネームでお金評論なんかをしている人です。

 えーと、「ななこSOS」の話だったっけ。その話はまた明日。